犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

再犯の恐れ

2009-04-19 22:08:16 | 言語・論理・構造
検察官: 「あなたが痴漢で捕まったのは今回で5回目ですね」

被告人: 「はい」

検察官: 「今後、また電車で痴漢をしたくなったらどうしますか」

被告人: 「今度こそ絶対に痴漢をしないように、意志を強く持ちます」

検察官: 「前の裁判の時にも、全く同じことを言っていませんでしたか」

被告人: 「今度こそ本当です。私は今後、女性を見て性的感情を持つこと自体を罪であると戒め、自分自身を激しく責めることにしました」

検察官: 「そんなことを言っても、ミニスカートの高校生が乗ってきたら、またムラムラするんじゃないですか?」

被告人: 「いいえ。世の中の大多数の男性はそうかも知れませんが、私は強い意志を持って、そのような気持ちを完全に抑え込みます」

検察官: 「でも、乗客の女性のほうも、明らかに男性の視線を意識しているような薄着していることもあるでしょう」

被告人: 「いいえ、すべては私の弱い心のせいです。私は自分に性的感情が生じた瞬間、そのような罪深い自分を懺悔します」

検察官: 「そんなこと、常識的に無理でしょう」

被告人: 「いいえ、強い意志を持てば必ずできます。私は今回、自分が罪深い人間であることを悟りました」

検察官: 「罪だなんだって、電車の中吊り広告が胸の谷間を強調した写真ばかりなのは、別にあなたの責任じゃないでしょう」

被告人: 「いいえ、何もかも私の責任です。そのような広告が存在するのも私の責任です」

検察官: 「裁判長! 被告人には虚言癖があります。再犯の恐れが大いにあります」

差別用語

2009-04-18 23:14:10 | 実存・心理・宗教
生まれつき目が不自由な人の苦しみはどのようなものか。この問いは正確ではない。このような問いを立てれば、問題は「苦しみ」への想像に集約されてしまう。そして、人は様々なことに苦しみを感じる存在である以上、「目が見える人は目が不自由な人の苦しみが想像できるはずだ」、「その苦しみをできる限り想像しなければならない」といった底の浅い教訓で話が終わってしまう。しかし、本来問題にしていたのは、このような話ではない。目の見える人がどうしても想像できないのは、目が不自由であることによる苦しみ以前に、目が不自由であるという事実である。毎日毎日、朝になって目が覚めても目が見えないということはどのような事実なのか、これはそれぞれの人が生きている人生の瞬間の連続でしかあり得ず、実際に経験したことのない者においては想像のできない断絶がある。

それでは、この「目が不自由である苦しみ」ではない「目が不自由である事実」とは、内心の苦悩の要素とは無関係なのかと言えば、そのようなことは断じてない。物理的・生物学的に、五感において視覚が不自由である状態を体験したいのであれば、単に目を閉じて暗闇の中で過ごしてみれば済むことである。そうではなくて、物心付いたときに「どうやら世間の多数派の人は自分と違って目で物を見るということができているらしい」と徐々に知らされ、それでも「目で物を見るということがどのようなことなのかがわからない」という事実に直面し、それにもかかわらず「自分はすでにこの人生を生きてしまっているしかない」という現実から逃れられないと知ったとき、それは現実であるところの実存的苦悩である。これを、苦しみへの想像というお説教レベルで語れば、本来問題にしていた繊細な地点はすぐに遠のいてしまう。

社会的弱者の救済という政治的目標を掲げれば、その保護意識は差別意識と同根であることが指摘され、問題は腫れ物を触るようなデリケートなところに入り込んでゆく。挙句の果ては、放送禁止用語、言葉狩りの是非という政治的な賛否両論で熱くなり、本来のところの繊細な実存的苦悩は完全に忘れ去られる。問題を解決しようという手法が、いつまでも問題を解決できないことには理由がある。この世の事実とは、それぞれの人が生きている人生の瞬間の連続でしかあり得ないならば、差別の解消とは、改めて政治的に叫ばれるものではない。例えば目の見える人が、人混みで白い杖を落として途方に暮れている人を助けて感謝の言葉を言われたとき、その人が無事に横断歩道を渡り切った後ろ姿を見送って安心したとき、目的地に着けるように心の底から祈ったとき、そこには保護意識も差別意識も存在しない。ましてや、目が見えて生まれた自分の幸運に感謝する心情や、目が不自由な人に対する偽善的な尊敬の心情が入り込む余裕はない。

日本には、「目は口ほどにものを言う」「百聞は一見にしかず」「目から鱗が落ちる」といった古くからの諺がある。これらは差別用語でも何でもない。しかしながら、この諺をどこからか聞かされるたびに、目が不自由な人は、目の見える人には想像を絶する現実に直面させられることになる。この現実とは、差別用語の禁止において指摘されるところの不快感や精神的苦痛とは全くの別物である。それは端的に、目の不自由な人が自らの人生を生きているということは、目の不自由な人生を生きていることと同義であるという現実であり、そのような現実に直面する瞬間の積み重ねによって今の人生の瞬間があり、それによって現在の人格が形成されているということである。目が見える人の人生においては、目が不自由な人のこれまでの人生の瞬間にはどれほどの積み重ねがあったことか、絶句して沈黙するしかない。そして、何も語ることができないならば、その場しのぎの差別用語の言い換えの技術を熱く議論するはずもない。

神谷美恵子著 『生きがいについて』 「2・生きがいを感じる心 ― 感情としての生きがい感」より

2009-04-16 22:00:54 | 読書感想文
p.22~

ルナールの生活のなかで、多くの困苦に耐え、多くのひとの非難に抵抗しうる勇気と忍耐の原動力となったのは、あきらかに烈しい生きがい感であった。ここには或ることをなすべくうまれついたひとが、その精神的資質の最も本質的な方向へと、否応なしにひきずられて行く姿がある。それが何に役立つかということはここでは問題ではない。彼はそのようにしか生きえないのであって、べつの生きかたをえらべば、たとえ社会的にもっと恵まれたとしても、人間としてはちっ息してしまったであろう。忍耐力も勇気も消えうせてしまったであろう。

p.29~

生きがい感が幸福感とちがうところは、生きがい感のほうが自我の中心にせまっている、という点である。幸福感には自我の一部だけ、それも末梢的なところだけで感ずるものもたくさんある。たとえば多くの男のひとにとって家庭生活の幸福は、それだけで全面的な生きがい感をうむものではなかろう。ところがどんなに苦労の多い仕事でも、これは自分でなければできない仕事である、と感ずるだけでも生きがいをおぼえることが多い。これはその仕事をすることによって、そのひとの自我の中心にあるいくつかの欲求がみたされるからである。したがってひとが仕事を選ぶ場合にも、もし生きがい感を大切にするならば、世間体や収入よりもなるべく自分でなくてはできない仕事をえらぶのがよいということになる。


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現代の日本は、幸福になりたい人と幸福になれない人であふれている。雑誌の見出しは、不幸になるのが恐ろしい人間の深層心理を突き、不安を煽り、幸福への強迫観念を醸成するのに一役買っている。ここにおける幸福とは、神谷氏が述べているとおり、多くの場合には世間体や収入である。そして、自我の一部の末梢的なところだけで感ずるものであり、なおかつ自我の中心に迫っていないものである。人生は転んでもやり直せる、あきらめないことが大切である、いつか夢は叶うといったありきたりのプラス思考は、あくまでも他者からの評価を前提にした虚栄心に基づいている。自我の中心に迫った生きがい感は、明日は我が身に何が起こるかわからないという事実を事実として端的に捉えるのみであり、それゆえに「人生を悔いのないように生きたい」といった手頃な解釈に安住することを拒む。

現代の日本は、他方で、生きがい感を大切にして仕事を選んでいられるような状況ではない。とりあえず内定をもらえる会社、内定を取り消されない会社、しっかりと給料を払ってくれる会社、倒産しない会社に就職するしかなく、それも少しでも収入が多い会社に正社員として採用されなければならない。今や神谷氏のような理想論を言っている時代ではなく、神谷氏の本はあくまで日本の高度成長期に書かれものだというならば、それは実際その通りである。これは、問題のレベルが格段に下がったということである。そうは言っても、人々はこの雇用不安の時代で生きるしかなく、ハローワークで生きがい感を大切にしていては食えずに死ぬというならば、それも実際その通りである。自我の一部の幸福感を問題の中心に置き、それを生きがい感と混同し、すべてを経済的な問題に解消しているこの時代が、年間3万人以上の自殺者を生んでいるとはいかなることか。

タイムマシン論争

2009-04-15 21:12:02 | 言語・論理・構造
O型 「タイムマシンで過去に戻れるなら、高校生の自分にもっと勉強するように言いたいね」

B型 「それよりも、大学入試の解答を教えたほうが早いんじゃないか?」

O型 「反則だよ。ところで、お前は昔に戻れるならいつに戻りたい?」

A型 「昭和20年8月5日の広島に行って、避難するように呼びかけたいと思う」

O型 「せっかく楽しく話してるのに、空気読んで答えろよ」

A型 「タイムマシンの話をするなら、この問題を避けるほうが不自然じゃないか?」

B型 「それだったら真珠湾攻撃、いや満州事変にまで戻らないと意味ないだろう」

O型 「もういいよ、下らない。ところでお前、さっきから黙ってるけど、過去に戻れるならいつに戻りたい?」

AB型 「1分前に戻って、この不毛な会話が始まるのを阻止したいね」

神谷美恵子著 『生きがいについて』 「1・生きがいということば」より

2009-04-12 21:33:31 | 読書感想文
p.10~

生きがいということばは、日本語だけにあるらしい。こういうことばがあるということは日本人の心の生活のなかで、生きる目的や意味や価値が問題にされて来たことを示すものであろう。たとえそれがあまり深い反省や思索をこめて用いられて来たのではないにせよ、日本人がただ漫然と生の流れに流されて来たのではないことがうかがえる。

辞書によると生きがいとは「世に生きているだけの効力、生きているしあわせ、利益、効験」などとある。これを英、独、仏などの外国語に訳そうとすると、「生きるに価する」とか、「生きる価値または意味のある」などとするほかはないらしい。こうした論理的、哲学的概念にくらべると、生きがいということばはいかにも日本語らしいあいまいさと、それゆえの余韻とふくらみがある。それは日本人の心理の非合理性、直観性をよくあらわしているとともに、人間の感じる生きがいというものの、ひとくちにはいい切れない複雑なニュアンスを、かえってよく表現しているのかも知れない。


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このようなテーマの話は、多くの場合、比較文化論に流れがちである。そして、一方では「非論理的で情緒的な日本語は国際社会では通用しない」との主張がなされ、他方では「母国語と文化に対する誇りを持つべきだ」との主張がなされる。人は簡単な話を難しくすることを好むものであるが、このような議論は非常につまらない。人は生まれる国を選べない以上、とりあえずは生まれた国で生きているしかなく、その国の言葉を話しているしかない、この共通の前提のところは寸分も疑われていないからである。幸運にも「生きがい」という言葉が存在する国に生まれた日本人は、その概念によって、語り得ないものを少しでも追い詰めることができる。そしてそれは、日本語を超えて、人類普遍の共通概念に迫ることができる。このように考えたほうが、議論としてはよほど面白い。また、このように考えなければ、神谷氏の言葉は読めない。

人はなぜ生きるのか。なぜ生きなければならないのか。なぜ死んではいけないのか。これらの古典的な哲学の問いに答えようとすれば、同語反復によって答えるしかない。すなわち、絶対唯一の正解が出ないのであれば、不正解のほうを切り捨てて行くしかなく、そうして残ったものが同語反復的な答えであるということである。例えば、「人は生きがいがあるから生きられる」「人は生きがいを求めているから死なないでいられる」といった答えは、正解であるとの確証はないものの、不正解であると切り捨てられることもない。もっとも、この同語反復的な答えは、「生きがい=夢の実現」といった浅い読み方をすれば、途端に不正解になる。このような捉え方は、夢が破れれば生きていられなくなるのみならず、夢が実現したときでさえ、目標=生きがいの喪失に直面することになる。神谷氏が捉えているのは、恐らく、最初に「生きがい」という言葉を発明した誰だかわからない大昔の日本人の、その発明せざるを得なかった瞬間の苦しみである。

人の心を引きつける広告宣伝

2009-04-11 01:57:32 | 言語・論理・構造
● ある広告会社のチラシより

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全然お客さんが来ないのはなぜでしょうか?

広島県呉市 小1女児死傷事件

2009-04-09 22:03:49 | 実存・心理・宗教
4月8日午後0時20分ごろ、広島県呉市の市道で、近くに住む広中美空ちゃん(6つ)ら市立広小1年の女児2人が、発進しようとした市営の路線バスの前を横切り、10メートルほど引きずられた。美空ちゃんは死亡、もう1人の女児(6つ)も重傷を負った。2人は6日に入学したばかりで下校中だった。広署は自動車運転過失致死傷の疑いで、バスの運転手・竹永新造容疑者(60)を現行犯逮捕した。


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● 論点その1 バスの運転手の責任
この運転手には、普段から運転が乱暴だとの悪評があり、バス会社に投書が寄せられていたそうである。公共交通機関であるバスは、停車と発車を繰り返す乗り物であり、しかも子供や高齢者が多く利用する以上、運転手には細心の注意が求められる。それにもかかわらず、注意を怠ったことは言語道断であり、厳しく責任が問われなければならない。(責任を問うたところで、わずか6歳で短い人生が終わってしまったことは取り返しがつかないのですが。)

● 論点その2 バスの構造的な責任
今回の事故の原因は運転手だけであろうか。大型車両には死角が多く、発車の際は非常に危険である。運転席から見て、左下や左側面は死角そのものであり、ミラーがあっても瞬時に見えるわけではない。現在は防犯カメラを見てもわかるとおり、カメラは小型化され、安価で販売されている。従って、一刻も早く全国のバスにカメラを設置しなければならない。(設置したところで、わずか小学校入学後3日目で命を奪われてしまった事実は変えられないのですが。)

● 論点その3 小学校の責任
今回の事故につき、運転手やバス会社を責めれば済むのだろうか。そのバスには教師が乗車しており、バス通学の指導期間中だったというのだから、学校が責任を免れることはできない。教師が車中の安全管理だけに気を配っていたというのであれば、バスを降りてから自宅に着くまでの安全管理に配慮が足りなかったと言わざるを得ない。従って学校は、再発防止に向けた対策を早急に講じるべきである。(講じたところで、残された家族の悲しみが癒えることはないのですが。)


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世の中には、政治的な賛否両論の構造、あるいは犯人探しと糾弾の構造が沢山用意されている。これに従ってしまえば、難しい問題は簡単な問題に姿を変える。死者は永久に帰らない、しかし死者が帰らない限り根本的な解決はない、「だからこそせめて」死者のために何かをしなければならない。この「だからこそせめて」の部分を忘れると、問題の所在を突き止めて解決策を講じるという、緊張感のない話になる。それは、わずか小学校に入って3日目であり、わずか6歳の人生であったという、一番逃げてはならない部分から逃げることである。

京都府舞鶴市 女子高校生殺害事件

2009-04-08 23:51:30 | 実存・心理・宗教
京都府舞鶴市の高校1年生、小杉美穂さん(当時15歳)殺害事件で、京都府警舞鶴署は中勝美受刑者(60)を殺人容疑などで逮捕した。


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● 某検察官の見解
目撃証言や物証が少ない殺人事件では、容疑者が自供しないことを想定して、慎重な手法を採ることが必要になる。(まあ、私は殺されずに生きているので、こんなことも言えるんですが。)証拠の真実性をめぐって争いになると、公判が長期化する恐れが出てくる。(まあ、殺されたのが私の娘だったら、こんな悠長なことは言ってられないんですけど。)今後は、容疑者の取り調べ過程を録画し、供述の任意性と信用性を確保することが重要になるだろう。(まあ、人命の重さの前には全ては負けるとか、そういう話はこの際考えないということで。)

● 某評論家の見解
物証が乏しい中で、情況証拠を固める高度な立証が捜査当局には要求される。(まあ、私は殺されずに生きているので、こんなことも言えるんですが。)裁判員制度では、取り調べで作られた調書よりも法廷での供述が重視されるようになる。(まあ、殺されたのが私の娘だったら、こんな悠長なことは言ってられないんですけど。)今回の捜査手法は、自供の獲得に力を注ぐよりは、間接的な証拠を綿密に積み上げる方向に力を注いでいるように見える。(まあ、人命の重さの前には全ては負けるとか、そういう話はこの際考えないということで。)

● 某弁護士の見解
過去の冤罪事件では、まず疑わしい者を逮捕して無理に自供させ、その後に捜索に入る例が多かった。(まあ、私は殺されずに生きているので、こんなことも言えるんですが。)弁護人による捜索のビデオ撮影を中止させたのは、捜査の可視化という観点からは好ましくない。(まあ、殺されたのが私の娘だったら、こんな悠長なことは言ってられないんですけど。)過去には密室での捜索で証拠に作為が加えられた事例がいくつもある。(まあ、人命の重さの前には全ては負けるとか、そういう話はこの際考えないということで。)

● 被害者の母親のコメント
「突然すぎて心の整理がつかない」

神谷美恵子著 『生きがいについて』 「はじめに」より

2009-04-05 23:45:02 | 読書感想文
p.4~

平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世のなかには、毎朝目がさめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。ああ今日もまた一日を生きて行かなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。耐えがたい苦しみや悲しみ、身の切られるような孤独とさびしさ、はてしもない虚無と倦怠。

そうしたもののなかで、どうして生きて行かなければならないのだろうか、なんのために、と彼らはいくたびも自問せずにはいられない。たとえば治りにくい病気にかかっているひと、最愛の者をうしなったひと、自分のすべてを賭けた仕事や理想に挫折したひと、罪を犯した自分をもてあましているひと、ひとり人生の裏通りを歩いているひとなど。いったい私たちの毎日の生活を生きるかいあるように感じさせているものは何であろうか。ひとたび生きがいをうしなったら、どんなふうにしてまた新しい生きがいを見出すのだろうか。


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これは1966年(昭和41年)の文章であるが、非常に普遍的な地点を端的に捉えており、現在にもそのまま当てはまる。特に「最愛の者をうしなったひと」は「いくたびも自問せずにはいられない」「毎朝目がさめるということがおそろしくてたまらない」との指摘は、合理主義や科学主義に流れがちな現代社会が見落としている部分である。現在の犯罪被害者遺族への支援策についても、「癒し」「慰め」「立ち直り」といった能書きばかりでなかなか噛み合っていないところがあるが、神谷氏の視点を借りてみれば、この原因がよくわかる。被害者支援策は、人生の勝利者、未来志向、夢は必ず実現するといった世間一般の成功哲学を超越していなければ、その究極のところで的を外す。

これに対して、「罪を犯した自分をもてあましているひと」は「はてしもない虚無と倦怠」で「どうして生きて行かなければならないのだろうか」と悩んでいるとの指摘は、現代社会の主な裁判を見る限り、なかなか望めない状況となっている。これもやはり、夢の実現、自分探し、野心や名誉欲といった世間一般の成功哲学の影響からは逃れられない。反省とは何か、更生とは何かを考え詰めていては、流れの速い現代社会では取り残されてしまう。そのためには、精神鑑定によって責任能力を争い、1年でも刑期を短くして外に出ようとする。そして、とにかく急がないと人生が終わってしまうので、「反省しました」「更生しました」という名目を得ることが自己目的化する。これらは、神谷氏が捉えている犯罪者の姿からすると、あまりにも浅薄な光景である。

犯罪被害者問題ではない犯罪被害者問題

2009-04-04 22:42:51 | 実存・心理・宗教
朝日新聞 4月4日付け朝刊 「事件・追う迫る」 『多額の紹介料 医師ら次々被害』より

「高級デートクラブ」から紹介された女性だった。「わがまま交際で満足をゲット」。スポーツ新聞の広告欄で見たそんな文句にひかれて電話した。女性が退席すると、入れ替わった若い男が説明した。「女性はあなたのことを気に入ったようです」。30回会う契約で1回に8万円もらえる。正式な紹介には350万円必要だが、最後に多額のボーナスもつくので、あなたがもうかる仕組みと言われた。昨年、都内の主犯格の男(30)が逮捕された。起訴された分だけで被害者9人、計約1億3200万円。検察の論告によれば、全体で約350人、被害総額8億円にのぼる詐欺だった。交際相手を求める女性は金持ちだけ。入会してつきあった男性は小遣いまでもらえる―。そんな話に医師や経営者ら、社会的地位の高いとされる人が次々ひっかかった。

「男性が惹かれる状況をつくり上げる。そんな話が本当にあるのか怪しいものだけど、男性だって女性とつきあって金も欲しい。甘い汁を吸いたい。そういう心理を逆手にとる」。職業や収入なども聞くが、隠したがる人が大半だ。だから、さりげなく探る。車はアピールできますか? ベンツ? 女性が喜びますよ。そんな会話から、引き出せそうな金額を見積もる。女性は、つてのある風俗店などから紹介してもらう。5~10人いれば足りた。 「金持ちみたいな格好にしてきて」と注文すれば、ルイ・ヴィトンやエルメスといった高級バッグやスーツを身につけてくる。あとは簡単な口裏合わせをするだけだった。被害は全国に広がる。千万円単位の被害にあった人も珍しくない。「海外へ行った」などの理由で女性と会えなくなると、別の女性を紹介されては新たに金を求められる。

8千万円以上だましとられたある医師は「まさか自分が、と思った」と話す。「詐欺とわかり、自殺すら考えた」と憤り、声を震わせた。地裁の論告で、検事は「家族に打ち明けられずに泣き寝入りしている人が多い。後ろめたい心情を逆手にとった卑劣でこうかつな犯行」と指摘した。「被害者はみんな、怪しいとは思っていたはず。でも心のどこかできっと大丈夫だと信じてしまう。その見極めが甘い人はだまされてしまう」。男は1億円を超す分け前を得たが、結局、被害弁済ではき出した。一審判決は懲役4年6カ月。3月半ば、刑が確定する直前に記した手紙が届いた。「冷静に考えればそんなうまい話があるはずないのに、欲に目がくらんだ人は疑うこともしない。だまされる側も脇が甘いというか、つけいられる隙がありすぎる」。


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犯罪被害者救済、犯罪被害者支援という範疇を設定すれば、このような事件まで含まれてくるのは必然的である。現に検察官は、「後ろめたい心情を逆手にとった卑劣でこうかつな犯行」と指摘し、被害者感情を厳罰に結び付けて論告・求刑を行っている。しかしながら、こうした事件の被害者の言い分は、犯罪被害者の問題の本質とは似て似つかぬものである。こうした事件の存在が、「被害者の特権に名を借りた恐喝まがいの事件屋」「多くの場合には被害者側にも落ち度がある」といった余計な概念を混入させてしまうのは迷惑な話である。私自身、この8千万円以上を騙し取られた医師には、何の同情も湧かない。自殺を考えたと言われても、命の重さという概念を持ち出すのも恥ずかしく、かえって命が汚れるような気がする。ただ、その医師に診察された患者が気の毒である。