犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

朝日新聞 1/30朝刊 『私の視点』 臨床心理士・西脇喜恵子氏

2009-01-31 02:12:59 | その他
「被害者参加制度 ― 偏った被害者像を超えて」より

法的な議論は別にして、臨床心理士の立場から犯罪被害者支援に協力してきた私にとって、たとえば「法廷が私的報復の場になる」という意見には違和感がある。犯罪は時に、心が壊れてしまうのではないかというほどの被害体験を強いる。そういう経験を生き抜いてきた犯罪被害者が、心を抑制し、努めて感情的にならないように話す場面に居合わせることは多い。

法廷が被害者の生の声や感情に影響を受けないかという心配の根底には、「怒りに打ち震え涙を流しながら感情的にものを語る」といった偏った被害者像がありはしないか。従来の法廷にはなかった新たな制度は、法曹関係者に抵抗感や不安感を生じさせるのだろう。だが、法曹関係者がやるべきは、そこで新たな登場人物の動きを封じるというということではないはずだ。

被害者参加制度で、犯罪被害者の感情に法廷が影響されるのではと心配する前に、やってほしいことがある。それは、目の前の犯罪被害者をありのままに受け止めるという当たり前のことだ。そして、法曹関係者は犯罪被害者に接した時、法曹関係者の側にわきあがる感情にこそ真摯に向き合ってほしい。


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法曹関係者はこれまで、本来政治的に中立であるはずの臨床心理士に対して、政治的な役割を期待してきた。それは、被害感情を癒し、厳罰を求める被害者の心のケアをすることによって、厳罰化への流れを抑制することである。バリバリの人権派の論客であっても、近年では「被害者など軽視して構わない」とは言いにくく、「被害者」「被害者遺族」という単語を出されれば口が重くならざるを得ない状況となっている。そこで、この流れを打開するものとして、修復的司法に代表される心のケアの理論が提唱されるようになってきた。そこでは、「怒りに打ち震え涙を流しながら感情的にものを語る」とのステレオタイプの被害者像を前提に、「法廷が私的報復の場になる」という懸念が示された上で、臨床心理学に対して高い期待が寄せられているのが通常である。

上記の臨床心理士・西脇喜恵子氏の意見は、このような法曹関係者のイデオロギーを一刀両断に切り捨てている。臨床心理士に「心のケアによる厳罰感情の沈静化」の役割を求める法曹関係者は、目の前の犯罪被害者をありのままに受け止めるという当たり前のことを怠っている。また、感情的であることをマイナスの要素であると決め付けている法曹関係者は、自らにわきあがる感情に真摯に向き合うことをしていない。このような西脇氏の指摘は、政治的に無色透明である臨床心理学からのものとしては至極当然である。どんなに臨床心理士が手を尽くしても、肝心の被告人が法廷で訳のわからない弁解や自分勝手な理屈を繰り返すのであれば、被害者の心のケアの効果など上がるはずもない。このような被害者の厳罰感情を抑えることまで期待されるのでは、臨床心理士の負担があまりに大きすぎる。

もっとも、西脇氏が述べるような偏った被害者像に陥らないためには、逆の側の政治的なイデオロギーの欺瞞にも細心の注意を払う必要がある。すなわち、道徳論に基づく厳罰推進派が、「怒りに打ち震え涙を流しながら感情的にものを語る」被害者に人道的に寄り添うことによって、秩序維持の手段としての厳罰化を達成することの危険である。このような政治論は、単に被害感情を作為的に煽ることによって自らの政治目的を実現しようとしているだけであり、真摯な犯罪被害者支援活動ではない。人がある日突然犯罪被害に遭って人生を狂わされることは、政治的に左でも右でもなく、ありのままに受け止められなければならない事項である。しかしながら、左側の反体制派と右側の体制派の遠近法によって物事を見ることに慣れてしまった法曹関係者にとっては、これが非常に難しい作業となってしまっている。

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