犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中島義道著 『私の嫌いな10の人びと』 第4章より

2009-01-26 23:51:37 | 読書感想文
第4章「いつも前向きに生きている人」より

p.80~

「いつも前向きに生きている人」は、自分だけそっとその信念に従って生きてくれれば害は少ないのですが、おうおうにしてこの信念を周囲の者たちに「布教」しようとする。「いつも前向きに生きている人」は、とにかく「後ろ向きに生きている人」が嫌いなのです。こういう人は、「後ろ向きに生きている人」が目障りでしかたない。これは男でも女でも、むしろいかなる組織でも一般的に当てはまるのですが、後ろ向きに生きている人を見つけるや否や、全身で「調教」しようとする。

「いつも前向きに生きている人」はおうおうにして、個人の私生活にまでも、その表情にまでも、介入してきます。くよくよしている人を視野の一角に認めるや、すぐに駆け寄って、明るい顔を求める。「いつまでくよくよしてるんだ! そんなじゃ、天国のおかあさんだってきっと悲しむぞ。おかあさんのためにも、しっかり前向きに生きなきゃ駄目じゃないか!」「そうね、ありがとう。私、もう泣かないから」という具合に事は進行していきます。こうして、いつも前向きに生きている善良な市民は、くよくよしている人を見つけるや否や、「笑え」と強制する。このように、困ったことに、この大和の国には落ち込んでいる人を見るとすぐに励まそうとする生物が多く生息している。

私は他人を励ますことが嫌いです。励まされることも嫌いです。この過酷な人生において、なぜくよくよすることを嫌う人がこれほどいるのか、私には不思議でなりません。と、考えに考えて行き着いたのは、「いつも前向きに生きている人」にとって、そばにめそめそくよくよしている人がいると、結局は自分が不愉快なんですね。もちろん私にとっても、すぐそばに「いつも前向きに生きている人」がいるときわめて不愉快なのですが、私はその信念自体を変えようなんて大それたことなど考えていない。ただ、信念は墓場までもっていってもいいから、それを私に強制しなければそれだけでいい。

生きることは苦しいに決まっているのですから、もしわれわれが「人生とは何か?」を真剣に問うなら、自分の苦しかった体験を思い出し、それを牛のように何度も反芻して「味わう」ほかない。厭なことは細大漏らさず憶えておいて、それをありとあらゆる角度から点検、吟味する。どんな人でも、被爆体験を、強制収容所の体験を忘れることは、けっしてないでしょう。そのわけは、それを後世に伝える義務があるからのみではなく、そういう過酷な体験を潜り抜けてはじめていまの自分があるからです。それを削除したら自分の人生を考えることができないから、たとえできるとしても、それは欺瞞的だからです。


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自己陶酔的な悩みに対して与えられるべきものは、単なる慰めや癒しである。これに対して、存在論的な苦しみに対して向けられなければならないものは、単に尊敬と畏怖である。