犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

被害者参加制度 初の公判(東京地裁)

2009-01-24 00:03:03 | 時間・生死・人生
1月23日、東京地裁において交通死亡事故の刑事裁判が開かれ、被害者の男性(当時34歳)の妻(34)と兄(35)の二人の遺族が公判に参加した。これは、昨年12月1日に施行された新制度に基づくものであり、実際に被害者側が参加したのは全国で初めてとみられている。被告人質問においては、被害者の兄が「どうして謝罪に一度しか訪れなかったのですか」「あなたが考える誠意とは何ですか」などと被告人に直接問いかけた。また、被害者の妻は「単なる交通事故でなく殺人と思っている。実刑を強く望みます」「発言できることは意義があるが、これを(判決に)反映してもらうことを望んでいる」との意見を陳述した。参加人らは、法廷が終わった後において、「私たちが前例になるので、感情は極力出さないようにした」と記者に述べたとのことである。

被害者参加制度の賛否両論の論点は、法廷が私的闘争・報復・仇討ちの場になり、法廷の秩序が乱れたり混乱したりするのではないか、それによって推定無罪の原則が守られなくなるのではないか、ということであった。このような視点から今回の法廷を見たならば、あまりにも裁判が淡々と順調に進みすぎ、拍子抜けしてしまったはずである。本来、イデオロギー的な賛否両論を盛り上げたいならば、参加人が罵声を浴びせながら被告人に殴りかかって、法廷警備員に制止されるような状況を望まなければならない。しかしながら、実際にこのような状況が生じやすいのは、人の命が失われた事件の裁判ではなく、ネット上の名誉毀損や振り込め詐欺などの裁判である。すなわち、法廷の秩序が混乱する可能性と、罪の重さとは比例するものではない。

ネット上の名誉毀損や振り込め詐欺の被害者が、法廷で怒りの感情をむき出しにして「謝れ」「金返せ」などと叫べば、それは腹いせになるばかりか、厳罰への圧力としての効果を上げることができる。これに対して、今回の裁判の「あなたが考える誠意とは何ですか」「単なる交通事故でなく殺人と思っている」といった言葉は、感情をむき出しにして叫ぶほど虚しい。これらの言葉の裏側には、他人はもちろんのこと当人の想像をも絶する狂気がある。そして、その狂気は凄まじい精神力によって抑えられなければならず、しかも実際に抑えられているがゆえに、非常に静かで淡々としている。言葉にすれば「どうして謝罪に一度しか訪れなかったのですか」という簡単な問いの形になるとしても、そこに実際に示されているのは、どのような言葉を尽くしても表現できない深い何かである。このような静かで淡々とした狂気にとって、法廷の秩序が乱れるか乱れないかということは些細な問題である。なぜならば、極限の絶望と苦しみを全身で生きているのであれば、法廷の秩序など、たかがこの世のルールであると知るからである。そして、このような秩序であれば、今さらそれを乱す意味もなく、乱さない意味もない。

従来の刑事裁判の構造を根底から変えるこの新制度は、近代刑事司法の大原則をもたらした中世の苦い歴史の教訓という点からすれば、どうしても受け入れることができないはずである。しかしながら、歴史の教訓に従って制度を運営してきたところ、それによって新たな問題が生じたならば、それがまた新たな歴史の教訓となる。歴史は個々の人間を離れて存在することがない以上、その個々の人間が不慮の事故や事件で突然人生を終了させられた場面は、間違いなく人類の歴史の一場面である。人間が歴史の客観性というパラダイムを追求すればするほど、遺された者は、特権的な地位に立つことができない。ここにおける「遺された者」とは、いわゆる遺族の意味ではない。いつどこの今現在にも「今現在」という時間があるとすれば、その「今現在」に生きている者すべてが「遺された者」である。

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