犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

犯罪被害者遺族に警官が「乱暴な言葉」

2009-01-30 00:23:46 | 実存・心理・宗教
裁判員制度の実施を目前にして、ここのところ刑事裁判をめぐる様々な報道が増えている。特に、一足早く導入された被害者参加制度をめぐり、全国初の被害者参加人による直接質問、論告求刑の意見陳述のニュースは大きく報道された。そのような中で、1月25日に一つ気になる記事があった。昨年12月、山梨県北杜市の飯田教典さん(当時61歳)が暴行されて死亡した事件をめぐり、被害者参加制度を利用する意向を持っていた飯田さんの長女(31)が北杜署に事件の説明を求めた際、署員から強い口調で罵られたというものである。長女が「殺人罪が適用されないことは納得できない」と伝えると、署員は「何が納得できないんだ。殺意がないから殺人じゃない。警察は検事の言う通りに動いているんだ」と罵った。さらに署員が「刑事と検事の違いが分かっているのか」と尋ね、長女が「分からない」と答えたところ、「話にならない」と威圧的に話したという。長女の兄(34)が「被害者なのにこんな対応をされるとは思っておらず、警察に裏切られた気分だ」と抗議したところ、県警は発言の事実を認め、遺族に謝罪したとのことである。

被害者遺族をひたすら悲劇の主人公とし、警察官の行為を道徳的に断罪することは簡単である。しかしながら、このような善悪二元論の捉え方は、ほんの僅かに風向きが変わっただけで、今度は被害者遺族をクレーマーとして非難する危険性がある。この差は紙一重である。実際に署員がどのような単語を述べたのか、県警はどのように謝罪したのか、再発防止のためにどのような努力をし始めたのか、このような攻撃によって、いわゆる世論としての構造が作られることは多い。かような構図において悪者とされた県警の側においては、表面には現れない被害者遺族への恨みの感情が奥深く沈潜し、なかなか払拭されないことになる。今後は遺族に対して細心の注意を払うということは、同時に腫れ物に触るようなよそよそしい態度を取る可能性を高めるということでもある。また、慎重に言葉を選んで表面的な対応に終始しつつ、心の奥底では白けているという状態を招来するということでもある。

「警察は検事の言う通りに動いているんだ」「刑事と検事の違いが分からないのでは話にならない」との警察官の言葉は、恐らく実存の深いところに触れられたがゆえに、行き場を失って発せられてしまったものである。検察官は、明らかに殺意があると思われる暴行についても、被疑者が頑強に殺意を否認することによって、やむを得ず傷害致死罪でしか起訴できないことが多い。そして、このような結果は、被害者遺族と直接応対している刑事にとっては非常に苦しく、無力感を覚えるところである。自分はどんなに殺人罪で立件してもらいたくても、司法試験に合格した検察官の指揮に逆らえば、キャリアでない公務員は首が飛ぶ。組織とは単に人の集まりであり、一人一人がそれぞれ自分の人生を背負って生きているが、実際に人は組織の論理を離れて生き残ることは難しい。目の前の被害者遺族を救いたくても、自分にはどうすることもできない。署員の強い口調での罵りは、恐らくこのような葛藤の渦を背景にしていたものと思われる。

他方で、遺族の側の「被害者なのにこんな対応をされるとは思っていなかった」との抗議は、いかなる意味でもクレーマーではない。現代社会の一般的なクレーマーとは、自らの抗議は誰の目から見ても正義の精神に適うと信じ切っているものである。土下座しろ、仕事を辞めろなどの要求を延々と続けるのも、このような強い正義感に裏打ちされているからである。そして、不祥事を暴いて厳しく批判すればするほど世の中は正しくなり、行政や警察は糾弾すればするほど正常化するとの確固たる信念がある。これに対して、今回の被害者遺族の抗議は、形の上では抗議によって謝罪を引き出しているものの、それによって社会正義の実現を目指すという種類のものではない。どんなに謝罪を受けたところで、死者は帰らない。それゆえに警察の対応は、腹が立つのではなく、ただただ悲しい。正義のために興奮して糾弾するのではなく、張り裂ける思いの行き場がない。すなわち、確たる目的のないまま、単に論理の要請によってそうせざるを得ないという種類の抗議である。