犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

公訴時効の撤廃を求める声明 その2

2009-01-17 18:54:29 | 時間・生死・人生
公訴時効の完成が刻一刻と迫る状況、これは数々の人間ドラマを生み出す。時効寸前の逮捕と言えば、平成9年の福田和子元服役囚(故人)の逮捕が国民的な注目を浴びた。愛媛県松山市内で同僚のホステスを殺害した福田容疑者は、幾度となく偽名を使い、美容整形を繰り返し、全国のキャバレーを転々として潜伏した。石川県では、警察が逮捕に向かう直前、その行動を察知し、とっさの判断で近くにあった自転車に乗り逃走した。結局、福井市内で逮捕されたきっかけは、スナックのカラオケで握ったマラカスに残された指紋であった。この15年にわたる劇的な逃亡は、大竹しのぶさんの主演でテレビドラマ化されている。

人生を賭けて逃亡する犯人、それを追う刑事の執念、この構図にはエンターテインメント性がある。迫り来る時効完成の日、止められない時間との戦い、古今東西で「犯罪」はドラマになりやすい。視聴者は犯人の側に感情移入することも、刑事の側に感情移入することも簡単である。ここでは例によって、犯人の逮捕を願う被害者側の視点が脱落している。すなわち、古今東西で「犯罪被害」はドラマになりにくい。刑事は自らの威信を賭けて犯人を挙げなければならず、先に犯人に自首されてしまうことは、ある意味では負けである。これに対して、被害者側の視点からは、何よりも犯人の自首が求められる。ここにおいて、刑事の執念と被害者遺族の願いの方向性は異なっている。

時効という法制度がある社会においては、公訴時効の完成が刻一刻と迫る状況は必然的である。この状況を「犯罪」の側からドラマにすれば、それを見る者は必然的に時間の外に立つ傍観者となる。これは、時の流れを客体的に捉えて感傷的になり、自らの人生に酔っている状況である。ところが、人間の時間性は、本来このような感傷的なものではない。時間が止まらないということは、「生きる」という現在形と、「生きている」という現在進行形が等しいということである。それは、生きている限り刻一刻と死に近付くということであり、残された時間が強制的に減らされて行くということである。ゆえに、「犯罪被害」は哲学的な内容を含み、法制度の中ではなかなか捉えられにくい。

公訴時効制度の存在意義の1つとして、専門的な議論においては、犯罪行為に対する可罰性の減少が挙げられている。これは、世論としての事件への関心の薄れと、被害者の応報感情の薄れの両者を含んでいる。これは現在の日本の法制度において時効制度が存在していることを前提とし、それを根拠付けるための議論であるため、どのような意味でも正当になるのは当たり前のことである。これに対して、被害者遺族が「犯人への憤りは増すことがあっても薄れることはない」と実際に述べるのであれば、それは端的な事実であって、どんなに法の理念を持ち出したところで噛み合うわけがない。○年○月○日という日が刻一刻と近付いてくる中で、被害者遺族の張り裂けそうな思いに正確に応えることができるのは、犯人の側における自首すべきか否かの深い逡巡のみである。