犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

公訴時効の撤廃を求める声明

2009-01-12 23:19:33 | 言語・論理・構造
1月10日、世田谷区の一家殺害事件(平成12年)や、葛飾区の上智大生殺害事件(平成8年)の遺族らが、殺人事件などの公訴時効の撤廃を求める遺族会「宙(そら)の会」の結成に向けて、発起人集会を開いた。発起人には、世田谷事件の被害者・宮沢みきおさん(当時44歳)の父良行さん(80)、上智大生殺害事件の被害者・小林順子さん(当時21歳)の父賢二さん(62)らが名を連ねている。会合において、小林賢二さんは「命の尊さについて被害者と犯人を比較した場合、あまりにも矛盾で残酷」と、時効撤廃を求める声明を読み上げた。

この種の議論は、権威ある専門家の手にかかると、例によって事件の当事者は議論の場からはじき出される。伝統的に、公訴時効制度の存在意義としては、犯罪の社会的影響がなくなるとの「実体法説」と、証拠が散逸し事実認定が困難になるとの「訴訟法説」が対立してきた。最近の学界では、犯人と思われている者が一定期間訴追されない状態を尊重し、個人の地位の安定を図ることに意義があるとの「新訴訟法説」が有力となっているようである。法務省も、公訴時効の見直しを検討する勉強会を設置する方針とのことであるが、例によって「被害者遺族の冷静さを欠いた感情論」は、権威ある刑事法学者の客観的な研究論文よりも下に置かれることになる。

近代刑法の大原則である罪刑法定主義からすれば、時効制度が撤廃されたとしても、それ以前に犯された殺人事件の時効完成を妨げることはできない。これが、国家権力がその名において人を裁き、刑罰という人権侵害行為を行うことの「重さ」であるとされる。この重さとは、厳罰を求める被害者遺族の激情に共感してしまえば見落とされるものであるとされる。そして、一時の感情論に動かされるのではなく、客観的かつ冷静に考えることによって正確に捉えられるとの論調が多い。この客観性とは、そのように述べる自分自身を除いた世界のことである。そして、この世界に立った上で、「社会全体のこととして我々一人一人が考えなければならない」との道徳論が述べられるのがいつもの流れである。

これに対して、小林賢二さんが述べた「命の尊さについて被害者と犯人を比較した場合、あまりにも矛盾で残酷」との声明は、平易な言葉を使っていても、あらゆる語彙を総動員して消去法を駆使した上で、ギリギリまで追い詰めて選ばれた言葉である。これは、法律の条文における一義的に明確な定義とは異なり、様々な逡巡や苦悩の論理がこの短い一言の中に圧縮されていて、それはこの単語の組み合わせでしか表現しようがないというレベルまで昇華された言葉である。従って、その言葉には、そのように述べる者の含めた世界が載っており、すなわち一人の全体重と全人生が載っている。このような被害者遺族の言葉の「重さ」は、刑罰が人権侵害であることの「重さ」とは種類が異なる。メタファーを重複して用いるならば、「『重さ』と『重さ』の重さの違い」である。