犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東京都江東区女性殺害事件

2009-01-15 18:13:55 | 時間・生死・人生
東京都江東区で昨年4月、会社員・東城瑠理香さん(当時23歳)を殺害し、遺体を切断して捨てたとして、殺人や死体損壊などの罪に問われた元派遣社員・星島貴徳被告(34)の被告人質問が、1月14日、東京地裁で行われた。検察側は5月に始まる裁判員制度を意識し、法廷の大型モニターにマネキンを使って遺体切断場面を再現した写真や、被告人自身が描いた犯行状況のイラストを次々と映し出した。しかし、星島被告がそれに沿って遺体を切り離していった方法や順序を説明すると、傍聴席で遺族の女性が声を上げて泣き出し、裁判所職員に抱きかかえられて退廷した。公判終了後、東京地検幹部は、「裁判員制度を想定して、目で見て分かる立証を心掛けた。遺族の了解は得ていたが、精神的ショックへの対応は今後の検討課題にしたい」と話した。東京地裁のあるベテラン裁判官は、「たとえ正視できない証拠でも裁判所は取り調べなければならず、市民も避けて通れない」と話したという。

「今後の検討課題」と言われるものが、検討を重ねることによって解決される例は少ない。今回の法廷で明らかになった課題は、被害者遺族が法廷で遺影を掲げることの可否、被害者の優先傍聴制度の可否、被害者意見陳述制度の可否、被害者裁判参加制度の可否など、これまで10年以上も検討され続けてきた問題の続きである。そもそも近代司法制度において裁判が公開されるのは、国民による権力の監視という理由であった。従って、被害者側からの傍聴は、近代法治国家の理論では扱いきれない。ゆえに、今回のような問題が起きると、上記のような被害者裁判参加制度の反対論が力を増すことになる。「傍聴席で遺族が声を上げて泣き出すようでは、厳正な審理が妨げられ、裁判員の公正な判断に支障を生じる」という例の理論である。ここにおいては、人間の尊厳、死者の尊厳(肉体の尊厳と精神の尊厳)などの価値は、遠近法によって遠くに追いやられている。

愛する者を殺された者は、法廷に行って被告人を目の前にすれば辛い思いをすることがわかっているのに、なぜ法廷に行くのか。それは、近代社会では自力救済が禁止されており、正義の名の下に法の裁きがなされる場所は裁判所しかないからである。正視できない証拠を次々と見せつけられ、声を上げて泣きながら途中で退廷することがわかっていても、法廷に行かないことはできない。それが、愛する者を殺されるということの意味である。法廷に行き、声を上げて泣きながら途中で退廷すること、これ以上の正解はない。その意味で、東京地検幹部が述べる「今後の検討課題」は一方では永久に解決することなどできず、他方ではすでに解決している。裁判員制度における裁判員の動揺という観点から見れば、傍聴席の動揺は、早急に除去されるべき問題である。これに対して、死者の尊厳(肉体の尊厳と精神の尊厳)は、傍聴席が動揺すればするほど守られることになる。

裁判員が被害者の遺体切断写真を目の前にして動揺しないのか、ショックを受けて実社会に戻れるのか、裁判員の心のケアに関する議論は多い。これは、裁判員制度の賛否両論の政治的な議論と結び付けられている。ここでは、重要な視点が2つ見落とされている。1つは、自分が裁判員になった場合ではなく、被害者遺族になった場合への想像である。自分は愛する者の遺体写真など絶対に見ることなどできないのに、目の前に座っている6人の裁判員は、焼き増しされたその写真を見ながら議論を戦わせている。そのことを重々承知しながら、裁判員の前で証言をすることは、死者の尊厳を守り抜くための悲痛な覚悟である。もう1つの視点は、自分が裁判員になった場合ではなく、被害者自身になった場合への想像である。裁判員に選ばれる可能性も、死体写真となって裁判に登場する可能性も、量的な確率の差でしかない。このような視点は、裁判員制度どころか、事実認定のシステムそのものを妨害するところがある。しかしながら、「被害者遺族には裁判参加よりも心のケアが重要だ」といったピントのずれは、この視点を通さなければ正すことができない。

公訴時効の撤廃を求める声明

2009-01-12 23:19:33 | 言語・論理・構造
1月10日、世田谷区の一家殺害事件(平成12年)や、葛飾区の上智大生殺害事件(平成8年)の遺族らが、殺人事件などの公訴時効の撤廃を求める遺族会「宙(そら)の会」の結成に向けて、発起人集会を開いた。発起人には、世田谷事件の被害者・宮沢みきおさん(当時44歳)の父良行さん(80)、上智大生殺害事件の被害者・小林順子さん(当時21歳)の父賢二さん(62)らが名を連ねている。会合において、小林賢二さんは「命の尊さについて被害者と犯人を比較した場合、あまりにも矛盾で残酷」と、時効撤廃を求める声明を読み上げた。

この種の議論は、権威ある専門家の手にかかると、例によって事件の当事者は議論の場からはじき出される。伝統的に、公訴時効制度の存在意義としては、犯罪の社会的影響がなくなるとの「実体法説」と、証拠が散逸し事実認定が困難になるとの「訴訟法説」が対立してきた。最近の学界では、犯人と思われている者が一定期間訴追されない状態を尊重し、個人の地位の安定を図ることに意義があるとの「新訴訟法説」が有力となっているようである。法務省も、公訴時効の見直しを検討する勉強会を設置する方針とのことであるが、例によって「被害者遺族の冷静さを欠いた感情論」は、権威ある刑事法学者の客観的な研究論文よりも下に置かれることになる。

近代刑法の大原則である罪刑法定主義からすれば、時効制度が撤廃されたとしても、それ以前に犯された殺人事件の時効完成を妨げることはできない。これが、国家権力がその名において人を裁き、刑罰という人権侵害行為を行うことの「重さ」であるとされる。この重さとは、厳罰を求める被害者遺族の激情に共感してしまえば見落とされるものであるとされる。そして、一時の感情論に動かされるのではなく、客観的かつ冷静に考えることによって正確に捉えられるとの論調が多い。この客観性とは、そのように述べる自分自身を除いた世界のことである。そして、この世界に立った上で、「社会全体のこととして我々一人一人が考えなければならない」との道徳論が述べられるのがいつもの流れである。

これに対して、小林賢二さんが述べた「命の尊さについて被害者と犯人を比較した場合、あまりにも矛盾で残酷」との声明は、平易な言葉を使っていても、あらゆる語彙を総動員して消去法を駆使した上で、ギリギリまで追い詰めて選ばれた言葉である。これは、法律の条文における一義的に明確な定義とは異なり、様々な逡巡や苦悩の論理がこの短い一言の中に圧縮されていて、それはこの単語の組み合わせでしか表現しようがないというレベルまで昇華された言葉である。従って、その言葉には、そのように述べる者の含めた世界が載っており、すなわち一人の全体重と全人生が載っている。このような被害者遺族の言葉の「重さ」は、刑罰が人権侵害であることの「重さ」とは種類が異なる。メタファーを重複して用いるならば、「『重さ』と『重さ』の重さの違い」である。

宮部みゆき著 『火車』

2009-01-10 01:40:09 | 読書感想文
p.194~ (物語の本筋とは関係のない箇所です)

「その場合、悪かったのは誰でしょうな?」と弁護士は言った。「無論、居眠り運転のトラック野郎には過失があった。が、彼をそういう勤務状態においた雇い主にも問題はあった。大型トラックと普通乗用車が一緒に走行するような道路に、衝撃を受け止める中央分離帯をつくらなかった行政側も悪い。道幅が狭いことも悪い。道を広げたくても広げられないのは、自治体の都市計画が悪いからだし、地価が途方もなく高騰しているからでもある」

呟くようにそれだけ言い並べて、顔をあげた。「そうやって考えてゆくと、事故には無数の要因があるし、理由がある。改善しなければならない点も多々ある。仮に、今ここで、私がそれを全部棚上げして、『でも結局は、事故を起こすのは、そのドライバーが悪いからだ。被害者も加害者も同じことだ。まともな人間なら事故を起こさない。事故に遭うのは、そのドライバーに欠点があるからだ』と言ったら、あなたはどう思われますか」

本間の頭のなかに、事故のあと病院を退院し、交通課の刑事に付き添われて焼香にやってきた、あの運転手の顔が浮かんできた。おかしなことに、顔立ちははっきり記憶していない。覚えているのは、彼が最後までこちらの目を見ようとしなかったことだ。そして、始終手を震わせていたことだ。あとになって、彼のぶるぶる震える指先からこぼれた焼香の灰を掃除しようと、彼の正座していた畳の上に膝をついたとき、そこに彼の体温が、異様に温かく残っているのを感じたことだった。

それで、ああ、あいつは生き残ったからな、と思った。そのとき初めて、しばらくのあいだ口もきけないほど腹が立って腹が立ってたまらなかった。だが、その怒りは、千鶴子を殺したのはあの運転手だけではないとわかっていたから、だからわいてきたものだった。悪いのは運転手だけではないとわかっていたからこそ。わかっていながらどうしようもないから、だから腹が立ったのだった。


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交通事故の原因を遡れば、それは無限に遡れる。従って、原因を正確に突き止めようとすればするほど、原因はわからなくなる。運転手を厳罰に処したところで、再発防止が図られるだけではなく、ましてや犠牲者が帰ってくるわけでもない。それゆえに、犠牲者の死を無駄にしないため、加害者が軽い刑で簡単に済まされるようなことだけはあってはならない。被害者遺族による厳罰化の希望は、このような自問自答の激しい逡巡と消去法を経て、最後に絞り出されたものである。

被害者遺族でない者が、学問的・実証的に「厳罰化は根本的な解決にはならない」と述べることは、いかにも鈍感で気楽である。実証科学は、「だからこそ」という逆説の論理を捉えることが苦手である。「加害者が正座していた畳の上に、その体温が異様に温かく残っているのを感じて、ああ、あいつは生き残ったからなと思って、しばらくのあいだ口もきけないほど腹が立ってたまらなくなった」。このような人間の心の機微は、定義された専門用語によっては描写できない。しかしながら、文学的な表現は感情的で客観性に欠けるものとして、法律用語よりも一段低いものとされがちである。

岸本葉子著 『自問自答』

2009-01-09 01:36:15 | 読書感想文
p.117~

カードを握り、機器の前に立ちました。が、画面の案内に従い、進めようとすると、何種類もの番号が要るのである。パスワード。暗証番号。「パスワードってどれのこと?」 「これの他に、別の暗証番号を設定したっけ?」 どこかに控えていなかったかと、財布の中やメモ帳を、せわしく探る。ようやく、合った。で、交換されるかと思いきや、「特典のお受け取りができません」の表示。「なぜーっ」 髪をかきむしりたくなる。

そもそもなんで、こんなにいくつも、番号を入力しなければならぬのか。憮然としてくる。犯罪に使おうというのではない。カードの持ち主たる、まぎれもない本人が、嘘偽りなく申請し、特典として付与された権利を、正当に行使しようとしているだけなのに。これもパソコンに慣れないゆえでしょうね。認証ということが、いまひとつピンと来ない。「まぎれもない本人」かどうかを、パソコンが確かめるための、入力だろうけど、こちらははじめから、逃げも隠れもせず、画面の前にいるから、「そんなまだるっこいことをしなくても、見ればわかるだろう」と、もどかしい(見えないって)。

こんな複雑な手続きを、みなさん、迷わずにできるのか。何種類もの番号を記憶し、どれが何で、どんなときに要るか、すべてわかっているのだろうか。自分以外の人が、ITの天才に思えてしまう。「情報機器の発達についていけない人がキレやすくなるとの説は、あながち外れではないかも」と思い直すのでした。


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「現代社会では、企業において情報セキュリティ管理システムの構築・運用に関する取り組みが必須であるにとどまらず、国民一人一人が情報セキュリティの重要性について理解すべきである。そして、情報セキュリティ確保のためには、セキュリティポリシーの策定及び運用の方法が最も重要なポイントであり、国民がセキュリティ意識向上に無関心であることは許されない」。このような言い回しは良く聞かれるが、人間はセキュリティ(安全・保安)と言われるたびに何故か不安になり、独特の空気を察知する。

「現代社会では、もはや従来の感覚でいることは許されない」という問答無用の理論も、独特の息苦しさを伴っている。これは、一体誰が許したり許さなかったりしているのか、その主語を考えてみればわかる。許さないという状況をもたらしている主語は、非人称の社会や構造などではなく、犯罪をたくらむ人である。これは、端から犯罪など考えていない人にとっては、単に余計なことに付き合わされている状況である。これを見抜いてしまうと余りに虚しいため、「現代社会では、・・・・・は許されない」といった大文字の正義が必要になってくる。

藤原智美著 『暴走老人!』

2009-01-08 00:56:48 | 読書感想文
p.15~
新老人が暴走する原因を一言でいえば、彼らが社会の情報化へスムーズに適応できないことにある。いつの時代も社会は変化し、それにともなって人々の暮らしも変わっていった。けれどこの半世紀の変わり様は、そのスピードと質によって他の時代とは明らかに異なる。技術は人の暮らしやその内面も変化させる。変化のスピードは加速するばかりだ。かつてひとつの技術が人の日常を変えるのには数世代かかったが、いまではひとりの人生のなかでいくつもの変化がおとずれる。私たちはそれに対応するために急きたてられるような日々を送っている。若い世代さえも対応に汲々としているように思われる。

p.45~
ケータイという道具は新しいコミュニケーションのあり方を社会にもたらした。それと同時に、私たちから「待つこと」を奪いとっていった。ケータイ登場以降、人の心理は、「待つ」から「待たされる」にシフトしたのではないか。そして「待たされること」は、人の感情を苛立たせる大きな要因となった。時代が待たなくていいように「便利」になるほど、「待つこと」のストレスは膨張し大きくなる。「待たされる」ことに過敏になる。

p.84~
いまでは、私を含めてケータイを毛嫌いした人々も盛んに使っている。そうせざるを得ないのだという。ケータイを前提にして、あらゆるメッセージのやりとり、待ち合わせ、面会から出会いまでが仕組まれる。最終的に私を含めて反ケータイ派を衝き動かしたのは、不安感であろう。ケータイを前提に動くこのシステムから排除されたくないという焦りだった。この先、私はそれについていくことができるだろうか、やはり不安になる。いつの日か、自分が置いてけぼりをくったような焦りを感じ、新老人の感情爆発を起こしてしまうのだろうか?


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昨年の後期高齢者医療制度の開始に際しては、「老人は死ねというのか」という高齢者の怒りが爆発した。現代社会の老人が抱え込まざるを得ない特有のイライラは、生物学的な衰えに伴うものではない。ましてや、社会学的な視点で分析したり解決したりできる何物かではない。もっと人間として根本的なところのムシャクシャ、全身から湧き出るような破壊的衝動である。「現代の高度情報化社会を昔に戻すことなどできない」といった理論は、比較的よく聞かれるところである。これに対して、「一人の人生における一度きりの時間は永久に戻らない」といった視点は見落とされがちである。

人間は社会の中で生きることにより、自ら社会の構築に寄与する。その人間が死を目の前にした人生の集大成の時期において、社会のシステムについて行けずに排除されてしまえば、実存的な感情爆発を起こすのは当然である。自分はこれまで一生を賭けて知識と経験を積んできたのに、それが今の社会で全く役に立たないとなれば、一体何のために人生を生きてきたのか。壊れたものを再び積み上げようとしても、もはや先は短く、後世に残すものも見当たらない。それにしても、後期高齢者医療制度の時には「老人は死ねというのか」一色だったマスコミも、雇用不安が焦点となれば「未来ある若者が希望の持てる社会」一色である。世論の盛り上がりとは、いつもこの程度のものである。

池田晶子著 『暮らしの哲学』より

2009-01-05 23:12:56 | 読書感想文
「不可能な『今年』」  p.185~187より


「今年の目標」という不思議な観念について、ふと思いました。大人になっても、そういう目標を立てる人はいます。「来年は飛躍の年にしたい」「今年こそは」と、人は言う。ちょうどこの暮れ頃からそれは始まって、年賀状でもそのように宣言し、正月3日間くらいは、自分でもそんなふうに唱えていたりする。「今年こそは飛躍の年にするぞ」

しかし、可笑しいじゃないですか。正月3日もすると、そんなの見事に忘れちゃうんですよ。松がとれて、会社が始まって、日常の暮らしが再開されると、いつものように何となく続いていっちゃうんですよ。今年の目標? そんなこと言ったっけ。三日坊主。

人が「今年の目標」を持ちこたえたためしがないのは、「目標」が立派すぎるためではなくて、「今年」というのが不可能だからだと私は考えます。「今年」というのは、いったいどこに存在しますか。今存在しているどこに今年なんてものが存在しますかね。「今年」もしくは「1年」というのは、明らかに観念だということがわかります。そんなものは、観念の中にしか存在しないものであって、存在しているのは、やっぱり今もしくはせいぜい今日だけなんですね。

それでも人は、現実が現実のままズルズルと過ぎてゆくのにも耐えられない。それで、1年のうちの最初と最後の1週間以外は完全に忘れているような「今年」「来年」という観念を、性懲りもなく持ち出してくる。そうして、暮れになれば「来年は」と盛り上がり、お正月には「今年こそ」と決意する。そしてまたすぐに忘れる。


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上の文章は、2007年(平成19年)1月の「サンデー毎日」の連載です。同時期に叫ばれていた「今年の政治課題」と言えば、「2007年問題はいかに解決されるべきか」、「教育再生会議による教員免許更新制の導入は妥当か」、「安倍首相による『美しい国づくり内閣』は戦後レジームからの脱却を成し遂げられるか」などといったものでしたが、今では全く見向きもされていません。

これに対して、「今年」という概念の不可能を述べる上の文章は、なぜか古今東西のどの「今年」にも当てはまってしまうようです。従って、このような文章は、あまりに正しすぎるがゆえに社会問題を解決するには何の役にも立たず、やはり世の中では見向きもされないようです。そして、2009年も例によって、「今年の政治課題」が華々しく語られています。

年頭の辞

2009-01-01 00:23:02 | その他
昨年は「派遣切り」に象徴されるように、雇用不安が顕在化した年でした。マスコミでは経済的な不安、生活の不安ばかりが強調されていますが、その根底にあるのは何よりも精神的な不安です。「仕事がない」という事実は、収入がないという事実を超えて、生きていることそのものが不安定になります。将来への不安というよりも、今現在の自分の存在が安定しないということです。

このことは、今のところ仕事がある者にとっても同様です。いつ職を失うかも知れないという恐怖は、人生そのものを揺るがします。ある日突然、地位も肩書きもなくなり、無職で放り出されるということは、人間にとって最大の恐怖です。従って、現在幸いにして仕事がある人も、その仕事を失うことのないように、万全の備えをすることが何よりも肝要です。


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以上、いつ衆議院の解散があるかわからず、選挙対策に追われて雇用対策に身が入らない代議士の年頭の辞でした。