犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『暮らしの哲学』より

2009-01-05 23:12:56 | 読書感想文
「不可能な『今年』」  p.185~187より


「今年の目標」という不思議な観念について、ふと思いました。大人になっても、そういう目標を立てる人はいます。「来年は飛躍の年にしたい」「今年こそは」と、人は言う。ちょうどこの暮れ頃からそれは始まって、年賀状でもそのように宣言し、正月3日間くらいは、自分でもそんなふうに唱えていたりする。「今年こそは飛躍の年にするぞ」

しかし、可笑しいじゃないですか。正月3日もすると、そんなの見事に忘れちゃうんですよ。松がとれて、会社が始まって、日常の暮らしが再開されると、いつものように何となく続いていっちゃうんですよ。今年の目標? そんなこと言ったっけ。三日坊主。

人が「今年の目標」を持ちこたえたためしがないのは、「目標」が立派すぎるためではなくて、「今年」というのが不可能だからだと私は考えます。「今年」というのは、いったいどこに存在しますか。今存在しているどこに今年なんてものが存在しますかね。「今年」もしくは「1年」というのは、明らかに観念だということがわかります。そんなものは、観念の中にしか存在しないものであって、存在しているのは、やっぱり今もしくはせいぜい今日だけなんですね。

それでも人は、現実が現実のままズルズルと過ぎてゆくのにも耐えられない。それで、1年のうちの最初と最後の1週間以外は完全に忘れているような「今年」「来年」という観念を、性懲りもなく持ち出してくる。そうして、暮れになれば「来年は」と盛り上がり、お正月には「今年こそ」と決意する。そしてまたすぐに忘れる。


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上の文章は、2007年(平成19年)1月の「サンデー毎日」の連載です。同時期に叫ばれていた「今年の政治課題」と言えば、「2007年問題はいかに解決されるべきか」、「教育再生会議による教員免許更新制の導入は妥当か」、「安倍首相による『美しい国づくり内閣』は戦後レジームからの脱却を成し遂げられるか」などといったものでしたが、今では全く見向きもされていません。

これに対して、「今年」という概念の不可能を述べる上の文章は、なぜか古今東西のどの「今年」にも当てはまってしまうようです。従って、このような文章は、あまりに正しすぎるがゆえに社会問題を解決するには何の役にも立たず、やはり世の中では見向きもされないようです。そして、2009年も例によって、「今年の政治課題」が華々しく語られています。