犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤原智美著 『暴走老人!』

2009-01-08 00:56:48 | 読書感想文
p.15~
新老人が暴走する原因を一言でいえば、彼らが社会の情報化へスムーズに適応できないことにある。いつの時代も社会は変化し、それにともなって人々の暮らしも変わっていった。けれどこの半世紀の変わり様は、そのスピードと質によって他の時代とは明らかに異なる。技術は人の暮らしやその内面も変化させる。変化のスピードは加速するばかりだ。かつてひとつの技術が人の日常を変えるのには数世代かかったが、いまではひとりの人生のなかでいくつもの変化がおとずれる。私たちはそれに対応するために急きたてられるような日々を送っている。若い世代さえも対応に汲々としているように思われる。

p.45~
ケータイという道具は新しいコミュニケーションのあり方を社会にもたらした。それと同時に、私たちから「待つこと」を奪いとっていった。ケータイ登場以降、人の心理は、「待つ」から「待たされる」にシフトしたのではないか。そして「待たされること」は、人の感情を苛立たせる大きな要因となった。時代が待たなくていいように「便利」になるほど、「待つこと」のストレスは膨張し大きくなる。「待たされる」ことに過敏になる。

p.84~
いまでは、私を含めてケータイを毛嫌いした人々も盛んに使っている。そうせざるを得ないのだという。ケータイを前提にして、あらゆるメッセージのやりとり、待ち合わせ、面会から出会いまでが仕組まれる。最終的に私を含めて反ケータイ派を衝き動かしたのは、不安感であろう。ケータイを前提に動くこのシステムから排除されたくないという焦りだった。この先、私はそれについていくことができるだろうか、やはり不安になる。いつの日か、自分が置いてけぼりをくったような焦りを感じ、新老人の感情爆発を起こしてしまうのだろうか?


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昨年の後期高齢者医療制度の開始に際しては、「老人は死ねというのか」という高齢者の怒りが爆発した。現代社会の老人が抱え込まざるを得ない特有のイライラは、生物学的な衰えに伴うものではない。ましてや、社会学的な視点で分析したり解決したりできる何物かではない。もっと人間として根本的なところのムシャクシャ、全身から湧き出るような破壊的衝動である。「現代の高度情報化社会を昔に戻すことなどできない」といった理論は、比較的よく聞かれるところである。これに対して、「一人の人生における一度きりの時間は永久に戻らない」といった視点は見落とされがちである。

人間は社会の中で生きることにより、自ら社会の構築に寄与する。その人間が死を目の前にした人生の集大成の時期において、社会のシステムについて行けずに排除されてしまえば、実存的な感情爆発を起こすのは当然である。自分はこれまで一生を賭けて知識と経験を積んできたのに、それが今の社会で全く役に立たないとなれば、一体何のために人生を生きてきたのか。壊れたものを再び積み上げようとしても、もはや先は短く、後世に残すものも見当たらない。それにしても、後期高齢者医療制度の時には「老人は死ねというのか」一色だったマスコミも、雇用不安が焦点となれば「未来ある若者が希望の持てる社会」一色である。世論の盛り上がりとは、いつもこの程度のものである。