犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

宮部みゆき著 『火車』

2009-01-10 01:40:09 | 読書感想文
p.194~ (物語の本筋とは関係のない箇所です)

「その場合、悪かったのは誰でしょうな?」と弁護士は言った。「無論、居眠り運転のトラック野郎には過失があった。が、彼をそういう勤務状態においた雇い主にも問題はあった。大型トラックと普通乗用車が一緒に走行するような道路に、衝撃を受け止める中央分離帯をつくらなかった行政側も悪い。道幅が狭いことも悪い。道を広げたくても広げられないのは、自治体の都市計画が悪いからだし、地価が途方もなく高騰しているからでもある」

呟くようにそれだけ言い並べて、顔をあげた。「そうやって考えてゆくと、事故には無数の要因があるし、理由がある。改善しなければならない点も多々ある。仮に、今ここで、私がそれを全部棚上げして、『でも結局は、事故を起こすのは、そのドライバーが悪いからだ。被害者も加害者も同じことだ。まともな人間なら事故を起こさない。事故に遭うのは、そのドライバーに欠点があるからだ』と言ったら、あなたはどう思われますか」

本間の頭のなかに、事故のあと病院を退院し、交通課の刑事に付き添われて焼香にやってきた、あの運転手の顔が浮かんできた。おかしなことに、顔立ちははっきり記憶していない。覚えているのは、彼が最後までこちらの目を見ようとしなかったことだ。そして、始終手を震わせていたことだ。あとになって、彼のぶるぶる震える指先からこぼれた焼香の灰を掃除しようと、彼の正座していた畳の上に膝をついたとき、そこに彼の体温が、異様に温かく残っているのを感じたことだった。

それで、ああ、あいつは生き残ったからな、と思った。そのとき初めて、しばらくのあいだ口もきけないほど腹が立って腹が立ってたまらなかった。だが、その怒りは、千鶴子を殺したのはあの運転手だけではないとわかっていたから、だからわいてきたものだった。悪いのは運転手だけではないとわかっていたからこそ。わかっていながらどうしようもないから、だから腹が立ったのだった。


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交通事故の原因を遡れば、それは無限に遡れる。従って、原因を正確に突き止めようとすればするほど、原因はわからなくなる。運転手を厳罰に処したところで、再発防止が図られるだけではなく、ましてや犠牲者が帰ってくるわけでもない。それゆえに、犠牲者の死を無駄にしないため、加害者が軽い刑で簡単に済まされるようなことだけはあってはならない。被害者遺族による厳罰化の希望は、このような自問自答の激しい逡巡と消去法を経て、最後に絞り出されたものである。

被害者遺族でない者が、学問的・実証的に「厳罰化は根本的な解決にはならない」と述べることは、いかにも鈍感で気楽である。実証科学は、「だからこそ」という逆説の論理を捉えることが苦手である。「加害者が正座していた畳の上に、その体温が異様に温かく残っているのを感じて、ああ、あいつは生き残ったからなと思って、しばらくのあいだ口もきけないほど腹が立ってたまらなくなった」。このような人間の心の機微は、定義された専門用語によっては描写できない。しかしながら、文学的な表現は感情的で客観性に欠けるものとして、法律用語よりも一段低いものとされがちである。