犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

保坂和志著 『書きあぐねている人のための小説入門』

2009-01-18 18:32:47 | 読書感想文
第7章 「テクニックについて ― 感傷的な小説は害悪である」より (p.210~)


感傷的な話は決まって、友人や近親者が死んだあとの時点から、その死が進行しているときを振り返って、「私には何もできなかった」と、自分の無力を甘くかみしめるつくりになっているが、その傍観者的態度が罪悪なのだ。

当事者として出来事に関わったら、それが終わっても出来事の不条理さにいつまでも腹が立ったり、「ああすればよかったんじゃないか……」「こういう手も打てたんじゃないか……」と考え続けるはずのものが、感傷的な書き方は、そういう整理のつかない気持ちを全部言葉としてきれいなフレーズで昇華させてしまう。

これはリアリティということと正反対だ。リアリティとは、それを生み出すサイクルに書き手が巻き込まれることによって初めて生まれてくる。つまり、文章を書く感情や思考を一色にしないことで文章が現実と連絡を取り、そこからリアリティが生まれる。感傷的な小説は世界を閉じればいいのだから、表面的なテクニックだけで書ける。小説に現実を持ち込んだら、それは絶対に感傷的にはならないのだ。


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感傷的な小説とは、例えばこのようなものである。「主人公(女性)の母親は生きることに疲れ、自殺してしまう。主人公は葬式の席で、母親から買ってもらった砂時計を、悲しみのあまり遺影に投げつけ壊してしまう。そんな主人公に彼氏は、壊れた砂時計と同じものを主人公に渡し、ずっと一緒にいることを約束する。主人公も彼氏とずっと一緒にいられるよう願う。やがて時が経ち、主人公は少女から大人へと成長する中で、様々な恋や別れを繰り返してゆくが、その心の中は常に母親の存在で支配されたままである。周囲が徐々に新たな幸せを見つけ出していく一方、主人公は独りで幸せを求めて奔走する」。

小説という表現形式は、何らかの解答を書くためにあるのではなく、最初の1行から最後の1行までに至る全体として提示されるものである(p.48)。本当の小説とは、その小説を読むことでしか得られない何かを持っており、それらに接したときの「感じ」は、普通に使っている言葉では説明できない(p.16)。これは、愛する者を不慮の事故や事件で亡くした者の手記に表れる種類の言語と同様である。小説とは、人間において社会化されていない部分をいかに言語化するかということであり、それは普段の生活をする上ではマイナスとなる部分である(p.12)。また、小説の言語は、ある問題を社会問題として扱うのではなく、根本のところまで問いかけを深めなければならない(p.74)。

社会科学は、すでに問題化されたものを見ることによって、個ではなく社会の側についてしまう(p.13)。そこでは、役に立つか立たないかという視点が万能となり、愛する者を失った悲しみを悲しみとしてそのまま捉えた言葉は、現代社会が一番聞きたくない種類の言葉となる(p.48)。現代社会で頭がいいと言われるのは、物事をモデル化・簡略化して語ることができる人であり、会社ではフローチャートの企画書が書けるような人材が高く評価される。しかしながら、このような俯瞰は幻影であり、まずはこのモデル化の欺瞞を看破するところから小説の言語は始まる(p.54)。人間が人間として心の底から知りたいと思うことは、すべて外から見ることができない。すなわち、自分がその外に立って論じることができない(p.56)。全体に向かって書かれた言語は、必ずその中に自分自身を含むからである(p.52)。