犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

五木寛之著 『人間の覚悟』

2009-01-23 00:56:47 | 読書感想文
第2章「人生は憂鬱である」より


p.60~

「悒(うれえる)」という感覚は、喜びの背景に流れるある種の哀感と似ていますが、万葉集に、「うらうらに 照れる春日に雲雀あがり 情(こころ)かなしも ひとりしおもへば」という大伴家持の有名な歌があります。おだやかな春の日、野原は緑、空は青く白い雲、雲雀が元気よくさえずり舞い上がっていく――、そんな春の景色を見ながら、一人こころが悲しいと詠んでいるのです。

万葉の時代の「かなし」は今の「悲しい」とはちがって、天地自然のあらゆる情感が心にしみこんでくるような、なんともいえない「いとしい」という感覚を同時にはらんだものでしょう。「吾妹子(わぎもこ)かなし」もそうですが、単純に喜び愛するのとはちがった感覚で、どこかにひそかな愁いを背負った感情です。ある西洋の思想家は、「人はなぜ、あらかじめ失われると分かっているものしか愛さないのだろう」となげきましたが、たしかにその通りです。人間はそれが永遠に目の前にあると分かれば、あまり愛着をおぼえない勝手なところがあるのです。


p.71~

何か気持ちが落ちこんで鬱々としてさえない心の状態、それを医学的にマイナスだからといって病気として分類するだけでは、人にとって大切なものが見えなくなる。今の時代は、そういう「愁い」までも心療内科の対象として心の病にしてしまうのですが、私はそれはまちがっているのではないか、と思います。人生は憂いに満ちているし、人は憂いを抱えて生きていくものだと覚悟しなければならない。

フランスで「ル・モンド」紙の宗教面の編集長から聞いた話ですが、18世紀にはじめて仏教がヨーロッパに伝わったとき、人生はそもそも苦であるというところから出発する仏教は、虚無的な敗北の思想であるとされ、なんとなく嫌がられたそうです。しかし、ショーペンハウエルの厭世主義や、『死に至る病』で絶望を追究したキルケゴール、また「神は死んだ」と宣言したニーチェや、『存在と時間』を著したハイデガーのように仏教思想を足がかりにする哲学者が生まれ、あらためてヨーロッパでも仏教が見直されるようになってきたという話でした。人の憂いや不安の背景には、言葉にできない悲しさ、生きていること自体が切ないという情動があります。


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この世に生まれてきたこと、生きていくことは、それ自体が憂鬱なことである。この真実を真実として捉えている限りは、その憂鬱にも救いがある。しかし、この深い感情を表明したことによって、「少しずつ元気を出してください」「1日でも早く立ち直れるように陰ながらお祈りしています」「自分で自分を責めないで下さい」との励ましを受けてしまえば、その憂鬱には救いがなくなる。