犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

名古屋・闇サイト殺人事件 死刑求刑

2009-01-20 18:49:47 | 時間・生死・人生
 一昨年8月、名古屋市千種区で磯谷利恵さん(当時31歳)が拉致・殺害された事件の論告求刑公判が、本日名古屋地裁で開かれました。検察側は、強盗殺人罪などに問われた闇サイト仲間の川岸健治被告(42)、堀慶末被告(33)、神田司被告(37)に対し、「無差別に被害者を拉致・殺害し、いつ誰でも同じような被害に遭うかもしれないと体感治安を悪化させ、世間を震撼させた」として、全員に死刑を求刑しました。論告に先立ち、遺族の意見陳述が行われ、利恵さんの母富美子さん(57)が「最愛の宝物の娘の命を奪われ、生きがいを見いだせなくなりました。3被告は命をもって償ってください」と述べました。富美子さんらは、3人への死刑適用を求めている活動を行っており、この署名はすでに30万を超えています。

 どのような残虐非道な被告人の裁判であっても、死刑の求刑というものは後味が悪いと感じます。しかしながら、仮に無期懲役の求刑であった場合のやり場のない虚しさを想像してみれば、「第三の選択肢」なるものはないと思います。そもそも、法律・裁判とはこのようなものです。すなわち、生産性のあるプロジェクトではなく、過去の不幸な事実の清算です。何かをプラスにする作業ではなく、マイナスをゼロに戻す作業ですらなく、マイナスの割合を少しでも減らす作業です。裁判所に来なければならない人は、基本的に不幸であり、後ろ向きです。この単純な事実は動かせません。そしてこの事実は、執行猶予であろうと、罰金刑であろうと、民事の慰謝料の支払いであろうと同じことです。死刑求刑・死刑判決に伴う後味の悪さを死刑廃止論にすぐに結びつけ、そこに希望を見いだそうとすることは、この深い絶望を直視しない短絡的な議論であると思います。

 3人の被告人への死刑適用を求める署名が30万を超えたことは、他の一般的な署名活動と比べてみれば、異質な感は否めません。この署名は紛れもなく、「殺せ」という方向を向いています。北海道から沖縄まで、身内でもない赤の他人が何の権利があってこのような要求ができるのか、「殺せ、殺せの大合唱」との揶揄も起きるところです。しかしながら、このような揶揄が決定的に見落としているのは、死刑を求める者の感情移入の客体です。人間が残虐な殺人事件の第一報を聞いて、瞬間的に感情移入せざるを得ないのは、被害者遺族ではなく殺された被害者自身に対してです。ところが、人間は生きている限り、死者に感情移入することができません。すなわち、死者の身になるということの意味がわからないということです。「死者の無念」と言語化した途端、その行き場のない感情は行く宛てもなく放り出されます。そして、この死者への感情移入が、いつの間にか被害者遺族への感情移入へと変形され、形而上の存在論は、政治的な厳罰論へと姿を変えます。

 人間社会に報復や復讐という行為形態があるとするならば、それはそのような被害を受けた当人がなすべきものです。殴られた者は殴り返し、名誉を傷つけられた者は傷つけ返します。そうだとすれば、殺人者に対して殺し返す権利があり、あるいはその義務を負う者は、死者自身のはずです。殺人者を誰よりも憎んでいるのは、被害者遺族ではなく、死者自身です。この論理関係は、絶対に動かすことができません。それにもかかわらず、生きている人間は、やはり死者の身になって考えるということの意味がわかりません。死者の犯人に対する憎しみや悲しみを想像したい、しなければならない、するべきだと思います。しかしながら、生死という存在の形式において、これは絶対にできません。だからこそ、生きている者は死者における憎しみや悲しみを想像したい、想像しなければならないと思います。これは「絶対」と「絶対」の無限連鎖です。

 「厳罰感情、報復感情の発現としての死刑は憎しみの連鎖であり、人類はこの憎しみを克服しなければならない」、このような理論はよく聞かれるところです。理屈としては筋が通っており、具体的にどこが間違っていると反論することは難しいと思います。しかし、何となく直感的に、大事なところが飛ばされているような気がします。これは、厳罰感情や報復感情の主体、そして癒しや慰めの主体を、何の疑問もなく被害者遺族に置いていることに基づくものだと感じます。誰よりも犯人のことを憎みたい死者自身は犯人を憎むことができず、従って最大の憎しみは論理的に連鎖することができません。また、誰よりも悲しみを癒されなければならない死者自身は悲しみを癒されることがなく、従って最大の悲しみは論理的に癒されることができません。この事件における30万以上の署名が示すとおり、人間は死者に感情移入することによって、身内でもない者同士の殺人事件の犯人に死刑を求めます。そして、このように感情移入をせざるを得ないのは、人間は生きている限り、必ず誰もが死者になるからだと思います。


この事件に関する過去の文章はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/e/2df4ef250f9de680ca2ecdcafa903850
http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/e/2d816d6d92f66a423ea37f95c346c047

最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
署名者です。 (一個人)
2009-02-11 22:08:02
私は、この署名活動に協力しました。
理由は、今まで判例で3人で1人を殺したのであれば死刑にならないと言ったような事を見たからです。
私は1人で3人殺した人より、3人で1人を殺した犯人の方が重い罪を受けるべきと考えたからです。
返信する
私も署名者です。 (某Y.ike)
2009-02-11 23:48:06
一個人様、コメントをありがとうございました。

実務上の量刑相場においては、単独犯よりも共同正犯のほうが刑が軽くなる傾向があるようです。これは、役割と責任の重さによる適正な量刑ということで、共犯者の間で責任が分散することに基づくものと思われます。しかし、これはすべて行為者側からの視点です。

被害者側からすれば、単独犯よりも共同正犯のほうが逃走しにくく、受ける被害は大きく、しかも理不尽な仕打ちに対する絶望感は何倍にもなります。裁判員制度・被害者参加制度を取り入れた新しい量刑相場においては、このような複数の視点の導入も重要になるでしょう。

死刑を求める署名の葉書に「川岸健治」「堀慶末」「神田司」という被告人の氏名を書いたときには、さすがに言いようのない緊張がありました。恐らく、ご両親の深い思いが込められた名前なのでしょう。その事実を受け止めた上で、「磯谷利恵」という被害者の氏名を見比べて、何日か逡巡した結果、私はその葉書を投函することにしました。今後も、この時の記憶を大切にしたいと思っています。
返信する
短絡的に廃止論に結び付けてもねぇ。 (清高)
2010-08-04 21:05:46
私なら頼まれても署名しませんね、申し訳ないけど。

殺害現場見たの?証拠検討したの?それもしないで署名するのを、私は短絡的だと思うからです(署名を求めることを否定しているわけではない。それは当人の自由。また、私がどう考えようと、自由のはず)。例えて言えば、「死刑求刑・死刑判決に伴う後味の悪さを死刑廃止論にすぐに結びつけ、そこに希望を見いだそうとすることは、この深い絶望を直視しない短絡的な議論である」という議論の展開が「短絡的」であるように。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。