犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中野翠著 『ラクガキいっぷく』より

2009-01-25 23:47:28 | 読書感想文
p.104~

日曜日の夕方。千葉からの帰路、朝青龍vs白鵬戦は、道ばたにクルマを止めてクルマについている小さなTVで見た。朝青龍の猛々しいガッツポーズにすっかり白け、サッサとTVを消した。相撲の世界でああいう感情表現は見たくない=見とうもない=みっともないと感じるのだ。他の競技でやってくれ、と。

そう感じながら、私はたちまち自己矛盾に気づいてしまう。派手で感情むきだしのアクションが不快だというなら高見盛はどうなのか、と。私は高見盛のあのアクションには不快どころか、かなりの好感を寄せているじゃないか。朝青龍はモンゴル人で高見盛は日本人、という違いは全然関係ない。そんなわかりやすいことではなくて、もっと微妙で複雑な違いだ。言葉に置き換えるのは難しいけれど、何か「浮世離れした楽しさ」があるかどうか ― かもしれない。

小沢昭一さんの「寄席や国技館にはトロンとした空気があるから好き」という言葉も思い出す。勝った負けただけじゃあない、どこか芸能に近い部分にこそ相撲の独特の魅力があると思う。今場所は大関陣の不甲斐なさが目立った。何だか哀愁が濃くなってしまったけど、私は魁皇が好き。仕切り前、重みのある手でゆったりとマワシを叩くしぐさに見ごたえがあって。大らかな「相撲の心」を感じるのだ。


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大相撲初場所は、引退が取りだたされていた横綱朝青龍の復活で異例の盛り上がりを見せました。テレビの平均視聴率は17%を超え、「満員御礼」は10年ぶりに7日間を超えたそうです。しかしながら、多くの評論家が述べているように、「大相撲人気の回復」と言い切るには違和感が残ります。この源泉を探れば、やはり中野翠氏が述べるところに行き着くように思われます。相撲文化は、国技という名目とは全く関係のないところで、「浮世離れした楽しさ」の上に育まれてきたものなのでしょう。

大相撲には、平成元年11月場所から平成9年5月場所まで、連続666日の「満員御礼」という記録が残っているそうです。今回、その頃の客層がそのまま帰ってきたわけではないことはもちろんですが、どうも客足が安定しているようには見えません。スポーツ新聞の1面には朝青龍の横柄な土俵態度をセンセーショナルに報じる記事が連日掲載され、朝青龍が勝てば何ともいえないため息とブーイングが混じったような歓声が上がり、多くの観客は朝青龍が負けるところを楽しみに見に来ているというのでは、このようなバブルはすぐに弾けてしまうように思われます。

今日の千秋楽では、場内に対戦相手の「白鵬コール」が起こり、NHKのアナウンサーが慌てて「朝青龍を応援する声も飛んでいます」とフォローを入れる一幕がありました。また、座布団投げは禁止されているはずなのですが、明らかに朝青龍を目がけて投げ付けられたような座布団が飛ぶ場面もあり、思わず漫画の『ああ播磨灘』を連想してしまいました。このような殺伐とした空気ではなくて、小沢昭一氏が述べるようなトロンとした空気が回復したときに、国技館には安定した客足が戻るように思われます。以上、外野の無責任な戯言でした。