犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「死刑廃止の代償」負う国民

2008-06-05 01:51:43 | 時間・生死・人生
6月4日付け 読売新聞朝刊 文化欄
東京大学・井上達夫教授 『「死刑の代償」負う国民』を参考に

20××年×月、通り魔事件で過去最悪の15人を殺害した被告人に対して、終身刑の判決が下された。死刑が廃止されて終身刑が新設され、我が国で初めて下された終身刑の判決である。このような犯人も死刑にできないのかという世論に対し、死刑廃止論者からは、「せっかく死刑を廃止したのにまた復活をするのか」という怒りを含んだ反問が向けられる気配すら濃厚である。しかし、このような状況だからこそ、死刑の復活に反対する人々に、私は冷静な再考を促したい。

まず、死刑廃止の倫理的代償を直視しよう。裁判制度は神ならざる人間が運用する以上、誤判の可能性は排除できず、「死に値する極悪人の生命」を保護してしまう可能性をゼロにできない。さらに、終身刑制度の適用者・執行者が「司法的終身刑」への加担により負う倫理的な傷がある。終身刑の執行は、ときに己の罪を全く改悛していない者の生存であり、しかも被害者の死と遺族の生涯の苦しみの上に成り立つ生存の国家的な保障である。その倫理的な傷は一層深い。この傷は、民主的国家においては、司法的生存を要請する法律を立法府に制定・存続させている主権者国民も負う。多くの国民は、裁判員制度の下での被害者遺族の意見陳述に直面して、この傷を自覚することとなった。

他方、死刑廃止の主な倫理的効用とされてきたのは犯罪抑止効果の欠如であり、抑止力論については実証的研究がなされてきた。しかし、実際に死刑廃止による不条理が表面化するに至って、抑止力ではなく、人を殺したのに自分だけ生きているのかという純粋な生命倫理がいまや主たる論拠になりつつある。以上を踏まえれば、問われるべき問いは、「終身刑が死刑と同等の抑止力を持つのか」ではなく、「殺人の1つである死刑が悪であるならば最初の殺人も悪であり、最初の殺人が善であるならば殺人の1つである死刑も善なのではないか」である。また、「この世で最高の罪である人殺しが倫理的に許されてしまえば、その下の罪である脱税や汚職や贈収賄が許されないという倫理がすべて崩壊してしまうのではないか」である。裁判員制度が実施され、意見陳述で「死刑にして下さい」と述べる遺族の前で終身刑を言い渡すことになった国民1人1人に、この問いを真摯に問うことを私は求めたい。

遺族が死刑廃止によって受けた悲憤の根底にあるのは、犯人は種々の手続的保護をうけ更生の配慮までされ、国家によって一生涯天寿を全うすることが保障されているのに、殺された被害者は二度と戻ってこないことにある。かつて本村洋氏は、「できれば早く墓前に報告してあげたい。ひとつの区切りがついたと思っているので、判決の内容は伝えたい」と指摘し、被害者の死は犯人の死刑によって報われる側面があることを指摘し、死刑制度は感情ではなく論理の要請であると述べたことがあったが、被害者と遺族の人権はまさにこのような施策でこそ保障すべきものである。それは、死刑制度の廃止によってもたらされた復讐心の呪縛から遺族を解放するためにも必要である。

被害者側から見た加害者の再犯

2008-06-04 22:34:04 | 実存・心理・宗教
6月1日、元小学校教諭の渡辺敏郎容疑者(35)が、世田谷区代沢の区立小学校の校庭に無断侵入して児童を盗撮し、建造物侵入の現行犯で逮捕された。渡辺容疑者は、交通事故死した子供の写真をホームページに無断掲載した児童ポルノ禁止法違反などの罪で、昨年7月、東京地裁から懲役2年6月・保護観察付き執行猶予5年の有罪判決を受けていた。刑事政策的には、同じような犯罪を何回繰り返そうとも、答えは決まっている。すなわち、「改善更生・社会復帰」である。これが近代法の目的刑の趣旨であり、目的論的な思考である。この世に立ち直れない人間などいない。この世に必要のない人間など一人もいない。我々はどんなに裏切られても裏切られても、犯罪者の立ち直りと社会復帰を支援することが大切である。このような更生の論理は、何十回犯罪を繰り返そうとも、無限に可能である。それゆえに、現代の刑事政策学は、その無限性を断ち切る死刑を何としても拒絶しようとしてきた。

これまでは、加害者の再犯について、被害者側の視点から述べられた理論は少なかった。ならば、述べるしかない(以下、刑法56条1項の再犯加重に限らず、一般的な意味で「再犯」を用いる)。加害者の更生と社会復帰を何よりも重視する目的刑の論理によれば、最初の犯罪の被害者は、加害者の更生のためにその人生を供したことになる。特に、生命を奪われた者は、加害者の更生のためにこの世に生まれてきたという役割を強制される。このような論理は、理不尽な犯罪被害に遭った側や遺族には到底耐え難い。しかし、この法治国家の下ではどうにもならず、断腸の思いでそれに従うことになる。加害者も「二度と過ちは繰り返しません」「被害者も分も含めて2人分の人生を生きます」と言っているし、せめて立派な人間になって社会に貢献してほしい。そうでないと、被害者が報われない。近代法の目的刑において、被害者への多大な犠牲の強制を正当化できるのは、この点が最後まで貫徹された場合のみである。

加害者の再犯によって、被害者に強いた犠牲を正当化する根拠は、すべてガラガラと崩れ落ちる。被害者はこの程度の人間に人生を供してしまったのか。被害者は何のためにこの世に生まれてきたのか。被害者や遺族は加害者に崩された人生を何とか立て直そうとしているのに、加害者の再犯によって、またその人生を崩される。それどころか、加害者は、さらに更生と社会復帰の論理によって、一方的に被害者の人生を崩そうとする。「今度こそ、本当に立ち直ります」「絶対に、これを最後にします」といった反省の弁は、論理的に無限に可能である。最終的に社会復帰という目的がある以上、加害者に有利な理屈はいくらでも考え出せる。実刑にすれば、社会からの偏見も強くなり、かえって再犯を招くのではないか。刑が長期化すればするほど、ますます社会から孤立し、立ち直りを阻害するのではないか。そこまで言うのであれば、まずは歴代の被害者のところを訪れて、雪だるま式の利息を含めて謝罪して回らなければならないはずである。

一般予防と特別予防、改善更生と社会復帰、このような目的論的な枠組みは、個々の人生の文脈を無視してきた。人権論が一種の全体主義になってしまったからである。また、目的刑論は功利主義の思想でもある以上、刑罰は害悪かつ人権侵害であると位置づけられる。従って、加害者のほうも心から反省する義務はなく、一刻も早く刑務所から出たいと考える権利がある。執行猶予中も、反省の日々を送る義務はない。そして、社会内においては自らの欲望を追求する権利があるとなれば、加害者が再犯をするのも当然である。これに対して、被害者のほうは、加害者の再犯によって、再び絶望のどん底に突き落とされる。最初の裁判は何のための儀式だったのか。何のために多大な時間とエネルギーを消費し、長々と加害者の反省の弁を聞かされ、軽い刑に渋々納得したのか。検察官への要求も取り下げたのか。これでは、被害者は自らの運命を責めることによって、現実と折り合いをつけるしかない。この自分への攻撃は、一般に言われるような甘いナルシズムではなく、実存の深淵である。

加害者の再犯は、被害者の二次的被害の延長である。いつになったら二次的被害が終わるのかという感じである。ここまで言語道断の落胆と失望が重なれば、被害者は自らが求めているものと現実とのギャップが大きくなりすぎ、もう何も期待しないのが安全だということにもなりかねない。近代司法と加害者の力学に取り込まれ、防御の姿勢を採ってしまうということである。被害者側が厳罰化を主張するのは、あまりにも近代法の目的論的な思考の負の部分を一方的に背負わされてきたからであり、論理的には当然の要請である。それでも、「加害者を厳罰にすれば済むのでしょうか」、「厳罰化されれば満足なのでしょうか」などと言われたら、このように答えるしかない。「済むわけがない。何十回、何百回厳罰に処しても、済むわけがない」。

勝間和代著 『お金は銀行に預けるな』

2008-06-03 17:25:03 | 読書感想文
私の後輩で、勝間和代氏に心酔している人がいる。先日も、勝間氏と神田昌典氏(カリスマ経営コンサルタント)のトークライブを聞きに行って、「人生の勝者」となるための貴重な理論を仕入れてきたらしい。彼は『お金は銀行に預けるな』はもちろんのこと、『無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法』などを何十回も読み込んでいる。あちこちに付箋紙を貼り、赤線を引いたりメモをしたりで忙しそうである。ちなみに、現在はまだインプットの時期だそうで、年収は1.1倍にもなっていないが、実践はこれからとのことである。日本中の人が『年収10倍アップ』を実現させてしまえば経済は滅茶苦茶になるので、10倍は冗談だと思っていた方が身のためである。彼は常々「人生の成功」という言葉を口にするが、まだまだ道は遠いようだ。私の目から見ると、いつも何かに追われているようで、仕事も手が付いていないようだが、本人がいいと言っているのだからいいのだろう。どうも「成功」「勝者」という言葉は、人を拝金主義の信者にさせるようだ。

「金融リテラシー」とは、金融に関する基本的な知識を持ち、それを基に適切な意思決定をする能力のことである。そして、これは人間に先天的に備わっているものではない以上、教育によって身につける必要があり、小学校から株式の仕組みを教えるべきであるとの理論につながる。金融リテラシーの重要性は、すでにアメリカでは常識となっているが、日本ではこれまで一般的ではなかった。しかしながら、経済がグローバル化した現在では、そのような旧態依然たる姿勢は許されない。金融商品およびその販売方法が多様化・複雑化し、金融資産の管理・運用における自己責任と自助努力の重要性が高まっている現代社会においては、金融に興味がないなどと言うことは許されない。お金は銀行に預けていれば済む時代はすでに終わったからである。従って、お金のことが苦手だという人は、その生き方を見つめ直す必要がある。・・・これが本書の主な内容である。

もちろん、エコノミストの理論としては、上記は全くの正論である。ゼロ金利政策が続き、年金制度の不安も増大するするばかりで、ガソリンの値上がりも止まらず、政府も頼りないのであれば、資産運用によって自分の財産を守るしかない。「貯蓄の時代から投資の時代へ」。全くその通りである。しかし、勝間氏のようなエコノミストによる高みの見物ではなく、庶民が強迫観念に駆られて自己の資産を預貯金以外の金融商品に振り向けるならば、これは必ず空洞化する。第1に、経済的な正論によって、政治的な正論が誤魔化されてしまう。すなわち、庶民における資産運用の技術に中心論点が移ることにより、民主主義における政府の金融政策は副次的な問題に後退する。第2に、何よりも人間がお金のことだけに頭を占領されてしまう。資産を銀行に預けて安心していた時代には、人間はお金のことをすっかり忘れて、それ以外の活動に時間を充てるだけの余裕があった。お金に換算できない豊かさである。しかし、四六時中お金のことを忘れられないとなれば、心の休まる時期がなく、お金のための人生で終わってしまう。

すべての人々に金融リテラシーが備わった社会においては、自分の仕事に誇りを持って真面目に働くという考え方は過去の遺物である。街頭における小銭の募金活動をしている暇があれば、金融商品の勉強をして儲けたほうが効率がよい。犯罪被害者が長々と民事裁判を戦って勝訴判決を得たところで、加害者が無一文で泣き寝入りをするのであれば、資産運用をして稼いで生活を立て直したほうが賢い。「加害者からお金を払ってもらうことに意味があるのだ、このお金は普通のお金とは違うのだ」と言ったところで、100万円はどれも同じ100万円だからである。・・・拝金主義が一種の宗教となれば、このような理論が支配的となる。そこでは、金儲けに興味のない者は存在が許されず、誰もが強制的にマネーゲームに参加させられる。人間が人間よりも金を拝むようになれば、当然人間関係はぎくしゃくする。何だか人間は株価や為替の上下に一喜一憂してますます忙しくなり、無理なコンプライアンスを要求しては裏切られて殺伐とし、格差がますます広がって自殺者が増える社会になりそうだが、エコノミストの理論としては正論なのだろう。

映画 『最高の人生の見つけ方』

2008-06-01 18:57:37 | その他
原題は、「The Bucket List(棺おけリスト)」である。棺おけリストとは、これまでの人生でやり残したことを箇条書きにし、それを死ぬまでに実行しようというものである。余命6ヶ月の末期ガンと判明した主人公の2人が、これをいかに実現してゆくのか。棺おけリストは、まさにこの映画の主題である。日本では、さすがに「棺おけリスト」では抵抗が多いと考えられたのか、邦題は「最高の人生の見つけ方」とされた。それでは、最高の人生を見つける方法は何か。この映画によれば、答えは「余命6ヶ月の末期ガンと宣告されること」である。これは結構怖い。「棺おけリスト」よりも、実は「最高の人生の見つけ方」のほうが怖い。

ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンの演技が素晴らしい。人間は自らの「死」を現実のものとして考えたときに、初めて自分の今の「生」を実感する。この大切で重いテーマを、暗くならずにユーモアを込めて伝えている。この辺りで止めておけばいいものを、ランキングの好きな現代人は、100点満点や星1つ~星5つで採点したがる。このような論評をすれば、自分が偉くなったような気分にはなれるが、この映画のテーマは逃げてゆく。ニコルソンとフリーマンの演技が素晴らしいのは、「死」を見事に演じ切っているからである。しかし、2人は実際には生きているではないか。その通りである。死んだのは、劇中のエドワードとカーターである。しかし、その2人はそもそも架空の人物であり、死ぬ以前に生まれていないのでないか。その通りである。それでは、死んだのは一体誰なのか。

民主主義は、人間が生きることはそれだけで素晴らしいと教えてきた。すなわち、個性の尊重、自己実現、自己啓発、幸福追求である。また、経済至上主義は、人間はお金があれば幸せになれると教えてきた。しかしながら、これらの思想だけでは、避けられない死が目の前に迫ってきたときにどうしようもなくなる。民主主義であろうとなかろうと、人生の時間は有限だからである。人間は自らの死を意識しない間は、お金で欲望や夢を買うことができる。しかし、命だけはお金で買えない。わずか6ヶ月の余命の中で、人間は何を求めるのか。金銭欲、物欲、食欲、性欲、名誉欲、自己顕示欲。これまでの信じてきた価値が次々と崩れてゆく。宗教家は、天国に行くためにはお布施が必要だという。法律家は、遺言書の書き方と相続税対策しか教えてくれない。やはり最後に信じられるのは、やがて死ぬべき自分自身しかいない。

地球上では毎日、大量の赤ちゃんが生まれ、入れ替わりに多くの人が死んでゆく。四川大地震の死者は5万人を超えた。エドワードとカーターは、遺された6ヶ月の余命の中で、格好悪く足掻くだけ足掻いて、棺おけリストをすべて実行した。地球の側から見れば、最後にやり残したことがあろうとなかろうと、何も変わらない。2人の遺灰はコーヒーの空き缶に納められてエベレストに埋葬されたが、その日も次の日も、同じように地球は回る。人生でやり残したことがあろうとなかろうと、地球は何事もなく回り続ける。それでは、棺おけリストをすべて実現したことに、一体何の意味があったのか。その答えは、ここに人生が存在することの謎は、生きている限りいかなる方法によっても理解することができないという事実の中にある。地球が回っていることが奇跡であるならば、我々が生まれて死ぬこともまた奇跡である。