犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

再発防止策の意味

2008-06-15 08:53:12 | 時間・生死・人生
「被害者の死を無駄にしないように、安全管理を徹底し、再発防止に努める」。これは、一般的に広く普及している言い回しである。そして、人々は善意によって、この再発防止策を政治的に推し進めようとする。しかしながら、この命題が正当性を得る条件は、非常に微妙であり、少しでも油断すれば根本のところを取り違える。確かに、事故後も安全管理が徹底されず、同じような事故が再発したとなれば、被害者の死が完全に無駄になったという脱力感が生じる。それでは逆に、安全管理が徹底され、再発防止策が確立されれば、被害者の死は無駄にならなかったと言えるのか。決してそのようなことはない。逆は真ではない。

事故の教訓から再発防止策が確立されれば、政治的な目的は達成される。しかし、この目的達成が「正解」となれば、その前提であるところの被害者の死までが「正解」とされてしまう。論理的に、生よりも死のほうが要求されてしまう。これは恐るべきことである。被害者の死は、絶対的に「不正解」でなければならない。もし、被害者が生きてさえいてくれるならば、生きて帰って来るならば、安全管理の徹底などどうでもよい。そんな話に興味はない。だからこそ、せめて被害者が帰って来ないならば、安全管理の徹底を求めたい。この逆説を経て初めて、「被害者の死を無駄にしないように、安全管理を徹底する」という言い回しは「正解」となる。

安全管理を徹底し、再発防止に努めようとする人は、しばしば被害者の無念の声を聞きたがる。そして、墓前で被害者と再発防止の約束をする。これも善意に基づく行為だけに、強く非難することはできないが、油断による根本のところの取り違えが生じている。死者の声が聞けるのは、その声を生前に聞いた人だけである。生前に共に生活をし、相互に記憶を共有し合った者のみが、その声を聞ける。そしてその声は、論理的には「死にたくなかった」以外ではあり得ない。「自分の死を無駄にしないように、安全管理を徹底してほしい」などという声を発する死者はいない。そのような声を聞いた人は、単に自分が聞きたいように聞いているだけである。

政治的な善意は、再発防止策が次善の策であることを忘れる。最善の策は、あくまでも被害者が生きて帰って来ることである。あくまでも被害者の死は、論理的に「不正解」でなければならない。この根本を手放さないことによって、逆説による再発防止策の意味付けが可能となる。被害者の死を無駄にしないことは、最善策として政治的に追求されてはならず、社会的な意義を有してはならない。また、体系化やシステム化にも馴染まない。このようなことをしてしまえば、被害者の死への畏怖は消失する。人間は生きている限り誰しもいつかは死ぬ運命にあり、生死は人智を超えた奇跡である(宗教的な意味に限らず、無神論からも同様)。この一点さえ忘れなければ、根本の取り違えは防げるはずである。

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1 コメント

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ヤフーのコメントを参照してください (ゆとゆと)
2008-06-17 20:05:11
そちらに書きました。
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