犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

無差別と差別 平等と不平等

2008-06-09 13:51:07 | 国家・政治・刑罰
昨日、秋葉原で起きた通り魔事件で無差別に襲われた被害者たちは、救急病院に次々と運び込まれたが、夜までに7人が亡くなった。この「無差別」とは一体どのようなことか。それは、「差別」の反対である。それでは、「差別」の対義語は何か。それは「平等」である。そうだとすれば、偶然その場に居合わせた被害者は、平等に殺されたのか。そんなことはない。たまたまその日その時、その場所に居ただけであり、生と死の境は「不平等」である。「平等」は近代法の基本理念であり、世界人権宣言も日本国憲法もすべての人間の平等を宣言している。しかしながら、このような平板な横並びのモデルは、人間の人生の一回性、人間の生死の厳しさ、取り返しのつかなさを根底から捉えてはいない。「無差別」とは、「不平等」である。これは、論理的にメビウスの輪のようにねじれており、「一即多即一」の弁証法である。「差別をなくしましょう」という道徳的な掛け声は、無差別な凶行の前には無力である。

加藤智大容疑者は、社会に不満を持っていた。それは実際にその通りであろう。それはそれで紛れもない事実である。加藤容疑者を厳罰に処するだけで、この種の凶行が永遠になくなるのか。死刑によって、問題は根本的に解決するのか。もちろん解決などしない。問題の根本は、広く日本社会に充満する閉塞感、行き場のないルサンチマンと憤懣、若者に希望の見えない現代の格差社会、政治家でも手のつけられない構造的な病理、そのようなものの複合である。これらは、加藤容疑者を死刑にしたところでどうにもならない。しかし、だからこそ、その先を考えなければ話は進まない。殺された7人のほうも、おそらく現代社会に満足していたわけではない。この閉塞感だらけで先の見えない日本社会で、必死に自分の人生を生きていたはずである。そして、このような凶行に及ばず、一度きりの自分の人生の時間を生きていた。日本のほとんどの国民も同様である。それにもかかわらず、なぜ特定の個人である自分だけが、社会への不満への捌け口として、見ず知らずの赤の他人に命まで差し出さなければならないのか。何でよりによって、この他の誰でもない自分の人生を奪ったのか。

刑事裁判にできることは、加藤容疑者の行為の構成要件的な評価である。まずは客観的な殺害行為、そして主観的な殺意の認定、それから犯行の動機の解明である。容疑者は社会に不満を持っていた。このような犯罪を生む社会の構造が悪い。家庭や学校の生育環境に問題があり、同情すべき点もある。彼はむしろ現代社会の被害者なのではあるまいか。これも1つの答えである。しかし、あまりにも洞察が浅すぎ、鈍すぎる。視座を殺された側に移してみると、何の答えにもなっていない。現在の刑事裁判を支配する人権の観念は、あまりに特定のイデオロギーに限定されすぎた。人生の一回性、生命の不可逆性に対する驚きから人間の尊厳が導き出されたとするならば、公権力の行使か否かで一刀両断に割り切るだけでは話が済まないことは容易にわかる。人は他人を何人でも殺すことができる。これに対して、人が他人から殺されることは、一度しかできない。そうだとすれば、人生の一回性への尊厳の論理は、殺した側ではなく、殺された側により強く妥当する。加藤容疑者は7人の生命を奪っているが、7回死刑にすることはできない。これが何よりの証拠である。「1人殺して懲役10年、2人殺して無期懲役、3人殺して初めて死刑」という量刑相場は、同じ命に差をつけており、近代法の基本理念である「平等」の限界を示している。

被害者や遺族に対しては、1日も早く立ち直れるように、心のケアがなされるべきである。国家による金銭の補償が必要である。それはそれでいい。しかしながら、さらにその先に残る不条理感を掘り下げなければ、問題は隠蔽されてくすぶり続けるばかりである。愛する息子や娘が殺されて、親として最後に唯一してやれることは何か。息子や娘のために、せめてしてやれることは何か。それは、他でもないその息子や娘がこの世に存在したこと、その生命の重さを示すことである。これは通常、命の重さは命によってしか償えないという論理を瞬間的に正当化する。従って通常、親として息子や娘のためにしてやれる唯一のことは、犯人に死刑を望み、その死刑を見届けることである。死刑廃止によって命の重さが示されるのだと言われても、なぜ愛する息子や娘の生命が加藤容疑者の生命によって示されるのか。遺族はなぜ、よりによってこの世で一番憎い犯人である容疑者の生命の重さを示すことを強制されるのか。この人間の生死に関する哲学的な問いは、とても「厳罰感情」の一言で済まされるものではない。


池田小事件に次ぐ犠牲=通り魔事件の死者-秋葉原通り魔(時事通信) - goo ニュース

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。