犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ふじみ野プール事故 市職員有罪判決

2008-05-28 22:17:56 | 国家・政治・刑罰
埼玉県ふじみ野市の市営プールで2006年7月に起きた戸丸瑛梨香さん(当時7歳)の死亡事故で、さいたま地裁は昨日、業務上過失致死罪に問われた市職員2人に有罪判決を言い渡した。元市教委体育課長・高見輝雄被告(61歳)が禁錮1年6カ月・執行猶予3年、元同課係長・河原孝史被告(47歳)が禁錮1年6カ月・執行猶予3年である。この判決が確定すれば、地方公務員法の規定に基づき、現職の河原被告は失職し、退職金も支給されない。また、ふじみ野市によると、保留されている高見被告の退職金も支給されないとのことである。

瑛梨香さんの家族は、判決の数日前、代理人の弁護士に「今でも瑛梨香の命が奪われたことが納得できない。瑛梨香も納得できるような判決であってほしい」と話したという。これに対し、ふじみ野市は事故後、業務委託業者との契約内容の確認・履行状況の監視などを担当するポストを新設したが、市職員からは「業者の過失責任まで負わされてはたまらない」との声が漏れたとのことである。そして、公判には市職員有志が集めた減軽を求める約7000人の署名が提出された。

この判決は、裁判所が罰金刑ではなく禁錮刑を選択したものであり、極めて厳しい姿勢を示したと評価されている。また、このような事故は一次的には業者の責任であり、自治体職員は頻繁に異動することからしても、この判決は非常に厳しいものである。しかし、何かが違う。人間が人間として論じたいのは、こんな話ではない。市職員から約7000人の署名が集まった点についても、公務員としての気持ちはわかるが、なぜか強烈な違和感がある。もっと重い刑にすればいいのか、実刑にすればいいのかと言えば、そうでもない。この違和感を突き詰めていけば、やはり最後は形而上的な問題に突き当たる。裁判が扱えるのは、あくまでも犯罪の有無であり、人間の生死ではない。すなわち、人間の一生は、「業務上過失致死罪」という条文には入り切らない。

純粋に形而上的に述べてみれば、事態は次のようになる。確かに、失職と退職金の不支給は重い処分である。しかし、人間の生命と比べれば、どれもこれも大したことではない。もちろん近代の実証的な理論は、生命と退職金の比較などは苦手であり、ここで問われている問題の意味がわからない。遺族は感情的だ、厳罰化すれば済むのか。亡くなってしまった人は生き返らないのに、退職金を支給しないことに何の意味があるのか。近代の実証的な理論は、様々な問いを発生させる。しかしながら、その中核のところは動かない。純粋な論理の要請によって、「退職金は生命より重い」という命題は誤りとなるからである。すなわち、「退職金は生命より重い」と言えば、端的に嘘になるからである。これは誰のせいでもない。

自治体職員が頻繁に異動しようとしまいと、河原被告は47歳まで生きている。すなわち、7歳で死亡していない。これに対して、瑛梨香さんは、47歳まで生きられなかった。すなわち、7歳で死亡している。退職金がもらえなかったり、失職をしたりするのは、その人が生きているからである。死んでいる人は、失職もできないし、退職金が不支給になることもない。近代の実証的な理論は、このような事実を改めて突きつけられると、嫌がらせあるいは屁理屈だと受け取ることが多い。しかし、これらは偽らざる真実である。誰のせいでもない。この世に生きて死ぬ人間において、誰にでも等しくあてはまる論理の要請である。人間の生死の前では、他の問題はすべて負けであり、失職も退職金も降参である。これ以上の当たり前はない。この当たり前の話を転倒させて難しくしているのが、現在の裁判である。

罰金刑か禁錮刑か。執行猶予か実刑か。法治国家においては非常に重要な判断である。しかし、どのような厳しい判決であろうとも、それが最終的にすべての人間の疑問を納得させることは稀である。このような疑問は、近代の実証的な理論では手に負えず、形而上学に委ねられるしかない。形而上の論理は、突き詰めれば突き詰めるほど言葉を失い、言葉にならずに叫びに似てくる。これが純粋な論理の形式である。これが論理ではない感情に聞こえるのは、聞くほうが論理的ではないからである。遺族が感情的であるとして近代の法治国家から排除されているのは、正しい論理・事実・真実・理性を突き詰めた先に生じる叫びを聞いてしまうと、形而下のシステムが壊れるからである。従って、「退職金は生命より重い」と主張するよりほかない。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 あとがき

2008-05-28 12:24:22 | 読書感想文
中嶋氏は弁護士かつ作家であり、専門知識を生かした作風が魅力である。専門知識を身に付けるとは、それを盲信することではない。どんなに弁護士法1条に「基本的人権の擁護」と書いてあったところで、人間は肩書きである以前に人間である。「犯罪被害者は暴力的な凶行で生身の不可分一体な被害を受けているのに、法的な場面になると、民刑分離の大原則で刑事被害者と民事被害者のふたつの身分に引き裂かれてしまう」(p.103)、この記述は中嶋氏ならではのものである。法律の専門知識がなければ、このような事実を指摘することはできない。逆に、専門知識がある多くの法律家にとっては、その知識ゆえにこのような事実をゼロから疑ってかかることができない。

民刑分離の大原則は、副次的にマニアックな論点を生んでいる。例えば、「不法原因給付と横領」という論点である。ある会社の上司が部下に対して、政治家に賄賂を渡すように命じ、大金を託した。ところが、その部下はそのお金を自分で使ってしまった。さて、部下に業務上横領罪(刑法253条)は成立するか。ここで、賄賂を託すような行為は不法原因給付にあたるので(民法708条)、上司は部下からお金を取り返す権利がない。従って、部下には上司に対する横領罪が成立すると考えると、民法と刑法がずれてしまう。そうかといって、このような部下が無罪放免というのも許しがたい。さあ困った、という問題である。民刑分離の大原則を立ててしまった以上、これは論理的に答えが出ない。犯罪者の思惑とは全く関係ないところで、民法学会と刑法学会の争いが続いている。

法律学は分析の学問である。民法の内部においても、私権はまずは物権と債権に分けられている。その上で、物権と債権は常に一緒に考えなければならないとされる。ここで、「買主は不可分一体の物を買っているのに、法的な場面になると、物権法による所有権移転と、債権法による代金債務・引渡債権の発生という2つの出来事に引き裂かれてしまう」という視点で問題意識を持つ人は少ない。物権と債権、2つのものが別々に「在る」と信じるのが法治国家だからである。従って、2つのものを別々に作って後からくっ付けようとして大騒ぎしているのならば、最初から分けなければいいといった突っ込みは聞かれない。かくして、単なる法技術であるはずのパンデクテンが実体化し、体系の維持が自己目的化し、人間は頭を悩ませる。

犯罪被害者にとって附帯私訴は非常に便利であるが、その実現にはまだまだ障害が多い。その障害が、民刑分離という近代法の大原則である。そこでは、民事裁判では犯人とされて賠償が命じられ、他方で刑事裁判では無罪放免となっても、両者は手続きが違うのだから不思議でも何でもないとの理屈が述べられる。しかしながら、これで終わりというのでは、体系の維持を自己目的化させた結果として、ゼロから自分の頭で考えることを放棄してしまったに等しい。中嶋氏からごく当たり前のことを指摘されると、あまりに当たり前すぎて虚を突かれる所以である。抽象的な近代法の大原則を取るか、現に目の前で涙を流している犯罪被害者を取るか、これは1人の人間としての倫理の問題である。専門家がその肩書きによって結論を先取りし、自らが正義であると喧伝している限り、それ以外の正義は逃げてゆく。