犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

修復的司法の問題点 その1

2008-05-21 21:38:19 | 実存・心理・宗教
修復的司法の推進論、消極論にかかわらず、犯罪被害者について論じる最初の大前提として、疑われていない命題がある。それが、「被害者は犯罪によって身体的・心理的・財産的な損害を被っている」との言い回しである。一見すれば、この命題には非の打ち所がない。ところが、この主語の採り方こそが視点を逆転させ、問題の入口を逆立ちさせている。上記の命題を正確に述べたいならば、次のように言い直さなければならない。すなわち、「人間は犯罪被害を受けた場合、身体的・心理的・財産的な損害を被る」。これは、「被害者」という特称命題を採るか、「人間」という全称命題を採るかの違いである。最初は微妙な違いであっても、その視点の採り方が、後に大きな差となって現れる。

「人間は…」という全称命題で語られた論理は、万人にとって普遍である。従って、それ自体の論理の要請によって、万人において反転する。ここでは、わざわざ「皆さん、被害者の身になって考えましょう」と主張する必要がない。他人の身になる以前に、自分のことについて語られているからである。これに対し、「被害者は…」という特称命題で語られた論理は、その意に反して、政治的な主張として受け止められる。そして、犯罪被害者というグループが、厳罰推進派という1つの党派に分類されてしまう。被害者の裁判参加の是非についても、この賛成反対論で問題が捉えられる限り、「被害者」という肩書きだけが跋扈し、人間が不在となる。そして、どのような人間の言葉も、「被害感情」という枠に押し込められる。

事実を肩書きにおいて捉えるか、それとも人間において捉えるか。この差が典型的に表れたのが、先月の光市母子殺害事件の死刑判決後における本村洋氏の記者会見に対する様々な反応であった。人間において本村氏の声を聞いた人は、そこに理性と論理によって研ぎ澄まされた思考の到達点と限界点を見た。これに対し、肩書きにおいて本村氏の声を聞いた人は、そこに「殺せ! 殺せ!」という感情的な叫びを聞いた。この差は、本村氏の側に存在するのではなく、聞く側に存在する。人間として聞けばそのように聞こえ、肩書きにおいて聞けばそのように聞こえる。他者に対する政治的な主張は、それによって他者ではなく自己を示すという逆説である。この世には、犯罪被害者という厳罰推進派の党派的なグループなど論理的に存在しない。

理不尽な犯罪被害を受けて、身体的・心理的・財産的に苦しみ、藁にもすがる思いで修復的司法の本を読んでみる。するとそこには、「被害者は犯罪によって身体的・心理的・財産的な損害を被るのです」と書いてあった。これでは救われるわけがない。この視点は、一緒に苦しんでいる人間の目ではなく、対岸から火事を観察している研究者の目である。人間が犯罪被害を受ければ苦しいことなど、人間であれば言われなくてもわかる話であって、改めて「被害者」という特称命題によって語られる種類の話ではない。この話にならない話を最初の命題に置く限り、その後の視点もすべて逆転する。あらゆる社会制度は、常に善意から出発している。修復的司法の思想も同様である。しかしながら、いったん制度という型をはめたがゆえに、その善意が悪意に変わることがしばしばある。