犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

被害者参加制度の意義

2008-05-07 22:12:14 | 実存・心理・宗教
昨年の6月20日に被害者参加制度関連法が成立し、今年度中には実施される見通しである。未だ詳細は明確ではないが、犯罪被害者や遺族が検察官の横に座り、証人尋問や被告人質問、求刑を含む意見陳述を行うことが認められそうである。この法律の実現は、全国犯罪被害者の会(あすの会)による粘り強い活動の成果であった。同会は、それまでの我が国の刑事司法の不当性を訴えて、55万人を超える署名を集めた。すなわち、我が国の司法はこれまで犯罪被害者を「証拠品」としてしか扱っておらず、その尊厳を置き去りにしてきたという主張である。これに対しては、日弁連を筆頭として反対論も強かった。刑事裁判の場に犯罪被害者や遺族の怒りを持ち込むことにより、刑事裁判が闘いの場となり、冷静で公平な審理が期待できなくなるというのが主な理由である。

犯罪被害者遺族の悲痛な叫びに対し、反対派の意見が噛み合っていないのは、問題の所在の深さが本能的に理解できていないからである。裁判とは社会的なシステムであるが、愛する者を通り魔や自動車事故で失うという経験は、個人の実存の絶対的孤独にかかわるものである。この経験は、相対的に捉えることができない。すなわち、人生の一回性の視点において、絶対的な個の問題として捉えなければ、本質が理解できない種類のものである。例えば、現代社会では様々な理由で悩みを抱え、自殺を考えている人が大勢いる。ここで、「世の中にはもっと苦しいのに一生懸命生きている人がいるんだよ」「世界には生きたいのに生きられない人が沢山いるんだよ」などと励まされたところで、全く説得力がない。死に至るほどの悩みとは、絶対的な個の問題だからである。被害者参加制度の反対派に説得力が欠けているのは、これと同じことである。

「愛する者がなぜ死ななければならなかったのか」という問いに答えを出すことは、遺された者の人生にとっては決定的に重要なことである。病気による死であれば、その発病に至った原因を詳しく知りたい。自殺であれば、彼をそこまで追い詰めたものは何かを明確に知っておきたい。そして、犯罪であれば、犯人がなぜそのような行為をしたのかを詳細に知りたい。すべては同じことである。この中核を置き去りにして、遺族の立ち直り、心のケア、犯人への赦し、改善更生と社会復帰などを論じたところで、深い問題は手付かずに残されたままである。愛する者の死は、生物学的な死とは別に、受け取る側の納得によって初めて死となる。人間の生命は、生物学的な命の側面とは別に、生活と人生を共にした関係性の中での命という側面も持っているからである。そうだとすれば、犯人の刑が決まることによって、被害者は初めて生物学的ではなく死ぬことができる。遺族が墓前に裁判の結果を報告せずにいられないことは、この真実を端的に表している。

遺族が検察官の横に座り、被告人質問をする行為は、心の奥から湧き出してくる率直な言葉によって、実存の絶対的孤独を語ることである。これは、加害者本人に対して述べられなければ意味がない。また、被告人に対して意見陳述をする行為は、遺された者の人生の文脈を探しつつ、遺族と人生を共にした関係性の中において被害者の生命を語ることである。これも、その絶望の深さを加害者に直接示さなければ意味がない。結果はともあれ、この実存的な問いをその問い自体において問わなければ、被害者も死ねないし、遺族も生きられない。被害者参加制度の実現を求める悲痛な叫びは、このような実存の深淵から吹き出したものである。被害者参加制度の反対派は、裁判参加によって遺族は被告人から逆恨みされる恐れがあると主張するが、余計なお世話である。実存的な深い問いに対して党派的な浅い返答をされても、議論は噛み合わない。