犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

夏目漱石著 『硝子戸の中』

2008-05-02 21:40:56 | 読書感想文
日本の世論は光市母子殺害事件の死刑判決を支持したが、国際的にみれば死刑廃止国が主流である。かような現象をどのように読み解けばよいのか。この問題を突き詰めて行けば、最後はどうしても人間の死生観に帰着する。もちろん法律学からは、これは哲学的な生死の問題ではなく、国家権力による刑罰を論じているのだとの反論を受けるところである。しかし、それならば、死刑と懲役刑・禁錮刑・罰金刑とを区別する必要などないはずである。生命刑としての死刑を特有の問題として論じるのは、そこに哲学的な生死の問題が混入せざるを得ないからである。そして、単純に「無期懲役の上に終身刑を作れば死刑は廃止できる」と言えないのも、最初の殺人事件において人間の死が生じているからである。やはりこの問題の決着は、個々の人間の死生観の深さに依存するしかなく、社会的な問題として議論しても答えは出ない。

下記の夏目漱石の文章は、大正4年に書かれたものである。現代人が悩んでいるようなことは、とっくの昔に漱石によって深く悩まれている。一度きりの人生、すなわち一度きりの死という存在の形式を生きている限り、この種の悩みは消えることがない。複雑化した現代の情報化社会においては、個人がこの悩みに解答を与える能力は、さらに衰える一方である。裁判員制度が始まることになり、「裁判員は死刑判決を言い渡すことができるのか」「新たな殺人行為の一端を担ってしまったことについて深く悩んでしまうのではないか」といった形での懸念が表明されている。しかしながら、このような形で問題が立てられている限り、それは表面上のポーズに過ぎない。生とは何か、死とは何かを考えずに生活の忙しさに埋没し、金儲けに埋没し、法治国家のルールに埋没し、その一環として死刑問題を論じているならば、その議論はイデオロギーの対決で終わる。


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● 第8章より(p.20~21)

不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつつある私は、自分の何時か一度到着しなければならない死という境地に就いて常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。「死は生よりも尊とい」。こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。

然し現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母、私の祖父母、私の曽祖父母、それから順次に溯ぼって、百年、二百年、乃至千年万年の間に馴致された習慣を、私一代で解脱する事が出来ないので、私は依然この生に執着しているのである。

だから私は他に与える助言はどうしてもこの生の許す範囲内に於てしなければ済まない様に思う。どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人として他の人類の一人に向わなければならないと思う。既に生の中に活動する自分を認め、又その生の中に呼吸する他人を認める以上は、互の根本義は如何に苦しくても如何に醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。


● 第33章より(p.83~84)

他に対する私の態度はまず今までの私の経験から来る。それから前後の関係と四囲の状況から出る。最後に、曖昧な言葉ではあるが、私が天から授かった直覚が何分か働らく。そうして、相手に馬鹿にされたり、又相手を馬鹿にしたり、稀には相手に彼相当な待遇を与えたりしている。

然し今までの経験というものは、広いようで、その実甚だ狭い。ある社会の一部分で、何度となく繰り返された経験を、他の一部分へ持って行くと、まるで通用しないことが多い。前後の関係とか四囲の状況とか云ったところで、千差万別なのだから、その応用の区域が限られているばかりか、その実千差万別に思慮を廻らさなければ役に立たなくなる。しかもそれらを廻らす時間も、材料も充分給与されていない場合が多い。

それで私はともすると事実あるのだか、又ないのだか解らない、極めてあやふやな自分の直覚というものを主位に置いて、他を判断したくなる。そうして私の直覚が果して当ったか当らないか、要するに客観的事実によって、それを確める機会を有たない事が多い。其処にまた私の疑いが始終靄のようにかかって、私の心を苦しめている。


● 解説より(p.119)

大我とは無我と一なり。故に自力は他力と通ず。
生より死、然しこれでは生を厭うという意味があるから、生死を一貫しなくてはならない(もしくは超越)、すると現象即実在、相対即絶対でなくては不可になる。