犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『考える日々』 第Ⅰ章より

2008-05-27 11:48:09 | 読書感想文
第Ⅰ章「考える日々」・「少年Aとは何者か」より


ちょうど11年前の今日、兵庫県神戸市の中学校の正門前に男児の頭部が置かれていた。そこには犯行声明文が添えられており、犯人は「酒鬼薔薇聖斗」と名乗り警察を挑発していた。情報化社会においては、犯罪のニュースは世間を騒がせ、あっという間に消えて行く。騒ぐだけ騒いで、「国民全体で考えましょう」と言いながら、議論は全く深まらずにすぐ風化する。酒鬼薔薇聖斗こと少年Aによる連続殺傷事件も、11年経って振り返ってみると、風化した虚しさだけが残されている。日本人はあの事件から、何を教訓として学んだのか。最初から何も学べるわけがないと思っていれば脱力もしないが、下手に何かを学ぼうとして喧々諤々の議論をした事実だけは覚えているから、振り返ってみるとやはり脱力する。

加害者本人を差し置いて、専門家が加害者の内心をあれこれと勘繰る。考えてみれば、これは妙な話である。加害者本人の内心のことである以上、本人に聞けばいいだけの話である。そして、専門家がどんな分析をしても、本人が「それは違う」と言えば終わりである。加害者本人も自分がわからないのであれば、例によって「心の闇」でおしまいである。加害者の内心は専門知識が解明できる、そしてこの問題が解明できれば自動的に犯罪被害の問題も解消する。この加害者中心の視点が、どれだけ被害者側からの視点を奪ってきたことか。

この事件をめぐる争いは、事件そのものよりも、新潮社の写真週刊誌『FOCUS』が少年法に反して少年Aの顔写真や氏名を掲載したことが問題となった。犯罪被害者保護の問題は扱いにくいこと、扱いにくい問題は扱いやすい問題に変えられること、政治的な問題は世論を二分して盛り上がること、これは11年前も今も変わらない。池田晶子氏は11年前にこの事件について色々と書いているが、その当時には特に何の反響もなかった。その当時の国民の関心に沿っていなかったからである。しかしながら、11年経って見てみると、あの当時のどの評論家よりも池田氏の述べていることがポイントを突いている。すなわち、少しも古くなっていない。古くなりようがない。


***************************************************

p.54~ 抜粋

4月号の『文芸春秋』で、各界の方が、少年の供述調書の読後感を述べておられるのを読んだけれども、ああいうことは違うのである。ああいうふうな感じ方、解釈の仕方自体に、すでに私は違和感を覚える。社会に原因する、教育や家庭に原因する、あるいは特異な精神構造すなわち「脳」に原因する。そういう理解の仕方で、いったい「何を」理解したことになるのか、それを理解しかねるのである。

論者の方々に一貫しているのは、あまりに理解できないことなので、どう理解していいのかわからない、したがって、どうにかして理解してしまいたいという切なる思いなのだが、しかし、なぜわれわれは、理解できないものを理解しなければならないのだろうか。理解できないものを理解するために、それぞれの仕方によって理解する。しかし、その理解とは、要するにそう理解する「その人の」理解の仕方であって、理解されるべき当のものを理解したことには、じつはなっていないのではないか。

「同じ人間」なのだから、わからないはずがない。そう思うのだろう。それなら問題は、同じであるところのその「人間」とは何か、これのはずである。私には、あの少年は、「とても同じ人間とは思えない」。あれは、われわれと同じ「人間」ではない。それで私は、あの子供がいかに奇怪なことをやってのけても、いまや驚かない。あれは「人間」ではないからである。

「人間」ではないならなんだというのだ。当然こうくるであろう。そんなの、私は「わからない」。そして、わからなくてもかまわない。少年自身は、自ら「魔物」と名のっているではないか。