犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「後期高齢者」の呼称はなぜ嫌われるか

2008-05-06 20:49:12 | 言語・論理・構造
4月1日から、75歳以上を対象とする後期高齢者医療制度が開始され、4月15日(年金支給日)からは年金からの天引きも始まった。それ以来、全国各地において、保険証が届いていない、保険料徴収額が多く算定されている、封筒のデザインが訃報を連想させるといったトラブルが相次いでいる。週刊誌も、「長生きという地獄、絶対許さない!」「史上最悪の国家犯罪」などのタイトルによって、この状況をセンセーショナルに報じている。特に多くの人々の怒りを買ったのは、「後期高齢者」というお役所言葉の響きである。屈辱的な扱いだ、年寄りは早く死ねと言わんばかりではないか、まるで姥捨て山だといった批判が相次いだ。舛添厚生労働大臣は、急いで「長寿医療制度」と通称名を使うよう指示したが、中身を変えずに名前だけ変えるのかとの更なる批判を浴びた。

「後期高齢者医療制度」の呼称はなぜ嫌われるのか。それは、客観的な社会全体からの統計学的な位置付けだからである。「後期」における「前」と「後」、あるいは「高齢」における「高い」と「低い」、これらは全体的に視点を取った上でのメタファーである。物理的な何かが前後に並んでいるわけでもなく、高い物体と低い物体が存在するわけでもない。それにもかかわらず、この文法が言語ゲームとして成立すると、この世に高齢者や後期高齢者といった人間の集まりが具体的に存在するようになる。これに対して、「長寿」における「長い」と「短い」もメタファーであるが、これはあくまでも個人の側に視点を取っている。もちろん、いずれのメタファーをいずれの視点において使用するかについては単なる偶然である。しかしながら、言語ゲームとして文脈における使用法が固定してしまえば、言葉はそれ以外の意味を持たなくなる。

このような文脈において「後期高齢者」の響きが嫌われたのは、それがストレートに死を連想させたからである。人間の苦しみは、「生・老・病・死」の4つに分けられているように、老いの苦しみと死の苦しみとは明らかに質が異なる。老後の心配は主に経済的なものであるが、死の恐怖は経済でどうなるものでもない。そして、死の恐怖のほうが格段に大きいため、人間は通常、老後の経済的な心配をすることによって死の恐怖から目を逸らす。政府に対する「年寄りは早く死ねと言うのか」といった批判も、この構造を端的に表している。「天引き後の年金額では生活できない」との苦情の表明も同じである。人間が生きることは老いることであり、死に近づくことであるが、これは誰のせいでもなく、政府の責任でもない。しかしながら、これを社会全体からの統計学的な位置付けによって示されれば、やはり人間は黙っていられなくなる。

「高齢者」には死のイメージが付きまとうが、「長寿」には生のイメージが付きまとう。これは、我が国のメタファーを利用した言語ゲームにおいて完全に確立されている。言葉の使用法に自覚的な政治家や役人は、このような言語の構造を上手く使うことによって、社会内に実際に構造を作り上げる。小泉元首相による「抵抗勢力」はその成功例である。これに対して、今回の「長寿医療制度」は結果的に失敗であった。一度「後期高齢者医療制度」というショッキングな呼称を聞かされた後では、もはや人間の意識は元には戻らないからである。このような言い換えができるのならば、そもそも「高齢化社会」を「長寿社会」と言い換えることもできるはずであるが、それでは単におめでたいという話になり、何が問題だかわからなくなる。やはり国家の視点においては、「後期高齢者」というお役所言葉を使用しなければならず、個人の側の視点である「長寿」という言葉は文法的に使用できなかった。この文法を破ってしまえば、単なる偽善であると批判を浴びるのは当然である(もっとも、その偽善を看破した後には更なる絶望がある)。