犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『知ることより考えること』 第3章 「楽しいお祭り」より

2008-05-22 20:37:47 | 読書感想文
(裁判員制度と裁判官のストーカーについて)


p.115~ 改変

まあ本当に、裁判員に選ばれる方々は大変である。始まる前から、ここまで問題山積の制度も珍しい。裁判員制度に反対するグループは、「思想信条を理由とする辞退を認めず、市民の基本的人権を否定する制度だ」気勢を上げ、この制度は憲法違反だとして廃止を求めている。お疲れ様なことである。最高裁は、法廷で残忍な犯行場面の再現で精神に変調をきたしたり、評決に悩む裁判員に対しては、「心のケア」を考えるとの方針を発表した。見事な付け焼き刃である。先日は、法務省が庁舎に設置した「裁判員参上!」という広報看板について、鳩山法務大臣から「センスが悪い」との苦言が呈され、「裁判員誕生!」への書き直しが行われたそうである。笑ってはいけないが、これは笑うしかない。

裁判所なるものは、鉄筋コンクリートの建物である。コンクリートには目も口も鼻も耳もない。従って、裁判所が証拠調べをしたり、判決を言い渡したりすることはできない。これらの行為をしているのは、あくまでも裁判官である。そして、裁判官は人間である。同じように、裁判員も人間である。いったいどこが違うのかと言われれば、人間としてはどこも違わない。人間であれば、ストーカーもする。これまでは法律によって、「司法試験に合格して司法研修所を卒業して任官した者だけが裁判をすることができる」と決められていた。その法律が、今度は「国民の中から裁判員として選ばれた者も裁判に参加する」と決めたのだから、これからの裁判はそうなるというだけの話である。鉄筋コンクリートの建物のほうは何も変わらない。裁判官のことを裁判所と呼んで違和感を覚えないのであれば、裁判員のことを裁判所と呼んでも違和感はないはずである。

現在でも、裁判官の価値観によって判決にバラつきが出たり、その日の機嫌によって判決が重くなったりすることは周知の事実である。自動車事故の裁判は、車を運転しない裁判官に当たると量刑が厳しくなるという話も有名である。裁判官も人間であるならば、これは実に正常なことである。鉄筋コンクリートという点で他のビルと変わらない建物において、裁判所という看板を掲げて儀式をすることに意味があるのであれば、裁判官による量刑の違いなどあまり問題ではない。そして、どんなに偉そうな肩書きをつけたところで、人間が人間を裁くという構造は変わらない。そうであれば、その人間が裁判官と呼ばれようと、裁判員と呼ばれようと、世の中で騒がれているほどの違いはないはずである。裁判所法もしょせんは法律であり、近代になってから整備されたものである。法律など、その時になって適当に変えればよい。

国民が判決において関心を寄せるのは、「東京地方裁判所がいかなる判決を出したか」であり、「最高裁判所がどのような判決を出したか」である。裁判長や裁判官の氏名や経歴まで気にしているのは、一部の関係者やマニアックな人達だけである。その意味で、裁判所とは人格的なものではない。裁判所に人格は存在しない。同じように、裁判官という肩書きにも人格は存在せず、裁判員という肩書きにも人格は存在しない。現に、裁判所の中では偉そうにしている裁判官も、法服を脱いで一歩裁判所の外に出て電車に乗れば、疲れ切った中年のおじさんにしか見えない。そして、魔が差せばストーカーもする。これは紛れもない事実である。裁判官も裁判員も、その場の役割、ロールプレイをしていればすべての話は済む。裁判員に選ばれた方々は、裁判員としてロールプレイを楽しむ、それくらいのお気楽な気持ちでよろしいのではないでしょうか。

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