犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

五木寛之著 『人生の目的』

2008-05-31 14:25:54 | 読書感想文
p.59より

近代の文明は、その出発点において明るい未来を予想したので、近代人はひとつの不遜な思いあがりを心に抱くようになった。すなわち、「意志の自由」によって、私たちは人生を自由に切りひらき、大胆に変えることができると考えたのである。だが、人間は決して無制限に「自由」ではない。社会制度が近代化され、改革されても、人間にはどうにもならない運命がある。私たちが人間として生まれ、この地球上に「生きている」こと、それ自体が、ひとつの逆らえない私たちの運命ではないのか。


p.79より

私たちは、ある親や家族のもとに、特定の血液型因子と個性をあたえられて生まれた。それは宿命である。私たちはそれを否定することができない。しかし近代という時代は、常にその宿命に挑戦しつづけてきた。人間に不可能はない、と確信したいからだろう。老いや容貌を整形医学によって変え、遺伝子組み換えによって個人の肉体の記憶も変えようとする。しかし、それで宿命をのりこえることが、はたして可能だろうか。それをこえることは、<唯我独尊>の唯我の尊厳を放棄することではないのか。宿命を平等化することは、個の命の重さを失わせることでしかないのではないか。


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「諸行無常」「万物流転」と、「改革推進」「社会変革」。これらの単語は、一見すれば非常に似ている。しかし、その内容は正反対である。前者においては、人間は何もしなくても社会は変わるし、人間が変えようとしたのとは違う方向に社会は変わる。これに対して、後者では、社会は人間が変えたいように変わる。民主主義や選挙のシステムは、後者の考え方を採用しなければ維持できない。前者の考え方を述べるようでは、まず選挙に当選しないからである。今やオバマ候補もクリントン候補も、福田首相も小沢代表も、誰もが「改革」「変革」と叫んでいる。しかし、選挙のたびに前任者の悪口とネガティブキャンペーンが繰り広げられ、自ら多数決で選んだはずの総理大臣の支持率がいつも低いのはどうしたことか。

論理的で体系的な思想は、細部を全体の一部に組み込むことにより構築される。その乱暴に括られた細部のほうは、全体の中に埋没する。法律は、論理学のように理路整然としていなければならず、私情が入ってはならない。このようにして、法律の条文と近代司法の民事・刑事のシステムは、人間の人生を飲み込んできた。社会的に生産性のない犯罪被害者の声は、歴史の発展法則に反し、時代に逆行するものであった。しかしながら、人生の流れは、その部分が全体である。人生の一回性の前には、時代に逆行しようとしまいと、本人には何の関係もないはずである。おそらくこの世の真理とは、真理を目指して構築された完璧な体系の中にあるのではない。多くの場合、その真理の体系からこぼれ落ちたところに、逆説的に真理が示される(p.332)。