犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

柳田邦男著 『犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日』

2008-05-17 21:06:55 | 読書感想文
現代社会は、世界人権宣言や各国の憲法に定められているとおり、何よりも人間の生命を尊重する。これは必然的に、死者に対しては冷たい視線が向けられることを意味する。もちろん、意図的に死者を愚弄するつもりは毛頭ない。それにもかかわらず、「生」の対義語が「死」であり、「重さ」の対義語が「軽さ」である限り、「生命の重さ」はその反面において「死の軽さ」を含意する。

現代の医療にとって、死は敗北である。医師に対して求められている行為は、何よりも患者の救命であり、延命措置である。もちろん、この行為自体には何の問題もない。ところが、この「生命の重さ」の理論を前提とする限り、敗北した死者はどこまでも軽く扱われる。臓器移植法が施行されて10年以上が経ち、議論も下火になってしまったが、臓器移植に関する倫理的な問題の中核はこの点にある。「命のリレー」という美しい行為も、少しでも油断すれば、「新鮮な肝臓が欲しい」「どこかにいい腎臓がないか」という欲望に転化する危険を秘めている。

現代社会は人間の生命を尊重することによって、死者に対して冷酷な視線を向ける。この点において、臓器移植の問題と刑事裁判の問題は一致している。殺人罪や業務上過失致死罪の被害者は、人間の生命を尊重する思想においては、あくまでも敗者の地位に置かれる。そして、生死を見ずに生命を見る限り、どんなに凶悪な連続殺人を犯した加害者であっても、その生きている人間を中心に物事が捉えられることになる。そうなれば、いかなる凶悪犯人であっても、その者の生命を中心に物事が考えられる限り、死刑が執行できなくなる。


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p.148~149より

私も理念としては、脳死をもって人の死としてよいのではないかと考えてきた。しかし、現実に脳死を人の死と認めると、日本の医療現場の現状では、タテマエのきれい事だけではすまないで、失うものも大きいという危惧を抱いている。なぜなら、死にゆく者の命も、臓器移植を待つ者の命も、等価であるはずなのに、脳死・臓器移植論のなかでは、死にゆく者の命=患者・家族全体を包む精神的ないのちのかけがえのない大切さに対しては、臓器移植を待つ者の命の1000分の1の顧慮も払われていないからだ。

ちなみに、脳死・臓器移植の推進論者である関西の某救急救命センターの医師は、「心臓移植をするところがあれば、いつでも提供できる」と豪語していると、同じ学会に所属する医師から聞いた。死にゆく脳死患者の臓器を自分がいつでも処理できるとは、なんという傲りだろうか。

集中治療室の看護婦の一人は、脳死のこどもを看護している際、ある教授が毎日やってきて、「まだ、死なないか」と聞くと言って怒っている。脳死が人の死とされると、この傾向はいっそう強化される。臨終の場はこれまでと様がわりする。家族は、静かに死別の悲しみにひたる間もなく、脳死によって人の死と判定された時点で、脳死者は死体となり臓器提供体として、運ばれて行くことになる。

死を大事にするとは、死にゆく時間を大事にすることだと思う。

小笹芳央著 『会社の品格』

2008-05-15 20:29:23 | 読書感想文
会社とは、あくまでも人間が作った仕組みにすぎない(p.6)。それゆえに、法人として実体化された会社は、金儲けのみを考え、自己保身ばかりを考えて病んでいく。会社という存在を生み出したのは、単に人間の欲望である(p.24)。会社が地球上に存在したのは、あくまでも17世紀の東インド会社以降のことであり、時代や場所を超えた普遍的な原理ではない(p.18)。このような哲学的視点を持つことは、一般には日常生活が送りにくくなるものであるが、行き詰まった資本主義社会を生き抜くためには、むしろ強力な知恵となる。

会社法の条文においては、「社員」とは従業員のことではなく、株主のことを指す。一時期、「会社は誰のものか」という問いが流行ったことがあったが、これは会社が人間による発明品である限り、無意味な問いである。このような問いは、株主主権論とともに目立ってきたことからも明らかであるように、「会社は従業員のものではなく株主のものだ」という解答を前提としている(p.37)。こうなってくると、会社は経済合理軸だけで動くようになり、粉飾決算や蛸配当につながる(p.26)。そして、「投資家の信頼」という掛け声が大きくなるほど、従業員の労働意欲は低下し、セクショナリズムがますます進んでゆく(p.73)。

会社と同じように、「株主」や「従業員」も、具体的な人間ではなく、仕組みにすぎない(p.38)。従って、これらの存在は実体として固定しているように見えるが、現実には相互に錯綜している。例えば、A社の従業員がライバルのB社の株式を買い、B社の従業員がライバルのA社の株式を買っていれば、「株主」と「従業員」は入れ子式になる。いったい人間は何をやっているのかという感じである。こうなれば、自分の会社で働いて得た給料よりも、ライバル会社の株価の上昇によって儲けた額のほうが高いという妙な現象も生じてくる。それには、自分の会社で不祥事を起こして、ライバル会社の株価を上昇させるのが手っ取り早い。従業員がこのようなことをしている会社はつぶれる(p.55)。

人間が働くということは、意味のある仕事に使命感を持って取り組むことである。そして、使命感とは、文字通り「命を使う」ことである(p.130)。人間が生きるということは死に近付くことである以上、どこの会社で何の仕事をするのか、それは人間の人生そのものとなる。人間が働くのは、金儲けのためだけではない(p.122)。他者に貢献したい、世の中の役に立ちたい、自らの人生を充実させたいなどの様々な理由がある(p.44)。従って、「会社は従業員のものではなく株主のものである」と言われるのは、従業員にとっては人生を否定されるに等しい。すべての仕事が金儲けのための歯車となれば、従業員のモチベーションは下がる。金儲けの論理によって人生の一回性に基づくニヒリズムを埋めようとしても、そこには限界がある(p.57)。数値目標を掲げるような会社では、従業員はその会社で働く意味を見出せない(p.101)。

投資家の信頼を確保するために、従業員の不祥事を防止しようとし、従業員に対して企業倫理を教育することは、初めから考えが転倒している。従業員が自らの働く意味を会社に投影することができる組織においては、改めて愛社精神などと言われなくても、自ずと企業倫理は実現されているはずである(p.23)。ルール統制というものは性悪説を前提としている以上、イタチごっことなるばかりか、自らルールを守ろうとしている人の意欲までも削いでしまう(p.41)。投資家は金儲けのために財務諸表によって会社の「ヒト・モノ・カネ」を評価する。しかし、このような「ヒト」を「モノ・カネ」と並列させて平然としている感覚は恐ろしい(p.188)。会社とは、あくまでも人間が欲望を実現するために作った仕組みにすぎないからである(p.192)。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 第16章

2008-05-14 22:13:44 | 読書感想文
第16章 犯罪者「福祉型」社会との対決

犯罪もいじめも、加害者と被害者の対立構造という点で共通している。中嶋氏によるこの洞察は非常に鋭い。加害者の被害者に対する犯罪行為は、あくまでも私人間の行為であって、人権侵害と呼べるものではない。他方、加害者に対する警察権力による取調べや国家刑罰権の行使は、人権侵害そのものである。人権論からはこのようなパラダイムが動かせないのであれば、このパラダイムはいじめ問題にもそのまま影響を及ぼす。

「いじめは人権侵害です。お互いの人権を大切にしましょう」。このようなフレーズが独立で唱えられる限りは、とりあえず問題はない。ところが、人権論はその本質において、私人間の行為は人権問題とは捉えられないのだから、いじめは人権侵害であるとの命題は矛盾を生じる。他方、いじめた生徒への出席停止処分、懲戒の体罰などが問題となれば、これは教師の人権侵害として槍玉に挙げられる。ここでは権力である教師が「悪」、いじめた生徒が「善」であって、いじめられた生徒は蚊帳の外である。犯罪被害者が善悪二元論から疎外される構造とそっくりであることがわかる。

いじめに苦しんでいる生徒が、「いじめは人権侵害です」とのフレーズを信頼して従来の人権論に頼ると、これは確実に裏切られる。旧人権論は加害者保護の法体系であり、いじめた側が「そんなことは言っていない」「そんなには殴っていない」などと弁解を始めたならば、途端に無罪の推定に始まる近代刑法の理論が登場するからである。この矛盾が見事に噴出したのが、かなり昔のことになってしまったが、平成5年1月の山形マット死事件であった。

7人の少年(A~G)は体育館にいる他の生徒たちに見えないように、児玉有平君をマット用具室に押しこみ、扉を閉めた。室内に入ると、「児玉、ここなら誰もいない。さっき俺が見た『金太郎』をやれ」、Cがそう有平君に命じた。有平君は「えー、えー、できません」と断った。Aは「児玉、ちょっとこっち来い」と有平君を呼び、顔面を殴りつけた。続いてBが「足を踏まれた」と因縁をつけ、有平君の足を蹴り上げた。Cはそこでさらに背中を1発殴った。有平君と同じ卓球部で1年生のFまでもが、「なぜ先輩の言うことが聞けないんだ」と顔を殴り、膝を蹴っていた。有平君は泣くような声で、「すいません許してください」と謝った。その後、少年達は一発芸をやらせるのはあきらめ、一方的にリンチを加えていった。

これだけでも大したいじめであり、「いじめは人権侵害です」とのフレーズからすれば、明らかな人権侵害であると評価されるべき行為の連続である。ところが、このいじめが鹿川裕史君や大河内清輝君の自殺と同じレベルで語られることはなかった。逮捕・補導された7人の生徒が犯行の否認やアリバイの主張をし、その自白の信憑性が問われ始めると、人権論の絶対的な正義は定位置に戻ってしまったからである。「いじめは人権侵害です」と言いつつ、「犯罪は人権侵害です」とは絶対に言わないのが旧人権論である。この欺瞞を看破するためには、やはり中嶋氏が述べるように、犯罪者「福祉型」社会と対決するしかない。

別れの時間の必要性

2008-05-13 20:26:24 | 時間・生死・人生
遺族が近親者の死を自然の摂理として受け入れることができるのは、十分な看病をし、来るべき死別の瞬間に対して心の準備ができているときである。病気に対して十分に闘った。そろそろ苦しみから解放させてあげたい。看病も長くなれば疲れてくる。このような状況になれば、遺族も近親者の死をこの世の必然としてすんなりと受け入れることができる。「安らかに眠ってほしい」という言い古された表現も、それ以外に表現する言葉がないほど、人間の深い実感を伴ってくる。遺族が近親者の死に目に立ち会うことは、古今東西を通じて、人間において重要な意味を有している。それは、遺族が喪失感や挫折感から立ち直るためにも必要不可欠な時間である。

不慮の交通事故や通り魔的な犯罪によって近親者を失った者には、この必要不可欠な別れの時間が与えられていない。せめて最後にあと1回だけ会いたい、5分だけでも会ってお礼とお別れが言いたいといった最低限の願いすらかなえられない。犯罪被害者遺族の直面する問題は、この別れの時間が与えられなかった不条理の問いを問いとして正面から見据えることの内にある。人間は誰でも死ぬものであるにもかかわらず、別れの時間が与えられなければ、人間は近親者の死を自然の摂理として受け入れることができない。この点において、犯罪による突然の死は、自殺や自然災害による死と同じく、近親者に見守れらながらの安らかな死とは厳格な一線を画している。しかも、加害者である犯人が存在しているという点において、自殺や自然災害による死とも一線を画している。

人間は必ず死ぬ存在である以上、遺族は近親者の死を人間として腑に落ちる形で受け入れたい。これはすべての近親者の死に際して、遺族が直面する共通の問題である。しかしながら、犯罪による死・自殺・自然災害による死については、この共通項が最初から奪われている。のみならず、犯罪による死だけは、その後も近代社会の法治国家の理論がこの共通項を奪い続ける。目的論的な思考に基づいて実用性を重視する近代社会は、「どうすればいいのか」という政治的な問いに早急に答えを与えたがる。そして、刑事政策的な被告人の改善更生と社会復帰が中心的な課題に据えられると、遺族の赦しと立ち直りが社会的な要請として求められてくる。こうなってしまえば、遺族に別れの時間が与えられなかった不条理の問いを問うことなどできなくなる。修復的司法の理論は、その究極的な目的が遺族の被害感情を抑えて厳罰化を防ぐことに向けられており、この問いを真剣に問おうとはしない。

古来、人間は近親者の死の喪失感と悲しみから立ち直る方法として、見事な宗教的な儀式を確立してきた。例えば、仏教で言えば、お通夜、告別式、初七日、四十九日、一周忌、三回忌といったものである。これは、近代社会の論理においては非合理であるものの、近親者の死という現実を受け入れ、日常を生きる心の平静を徐々に取り戻していくための生活の知恵として、現代でも広く受け入れられている。ところが、犯罪による死は、この時間軸に対して別の無粋な時間軸を持ち込む。すなわち、48時間の逮捕、24時間の送検、10日間の勾留、10日の勾留延長、勾留理由開示、2ヶ月の被告人勾留、1ヶ月の勾留更新、第1回公判期日といったものである。凶悪事件になればなるほど、近代社会は加害者を中心とする構造を作り上げ、遺族における不条理の問いを邪険に扱おうとする。犯罪被害者遺族の心のケアというならば、まずはこの近代刑法の論理が一歩退かなければならない。

十億の人に十億の母

2008-05-11 18:34:45 | 言語・論理・構造
「十億の人に十億の母あらむも 我が母にまさる母ありなむや」
現代語訳:世の中のすべての人には母親がいる(いた)。しかし、自分の母親よりも素晴らしく、そして尊く有り難い存在は、この世のどこを探してもいない。

これは、宗教家・哲学者の暁烏敏(あけがらす・はや、1877-1954)の歌である。彼の母親が亡くなったときに作られた『母を憶う歌』370首のうちの1つである。5月の第2日曜日は母の日であり、カーネーション贈る理由などのうんちくは広まっているが、この歌は現代の商業主義に合わないためか、あまり有名ではない。この歌の凄いところは、自らのことを語っていながら、十億人のすべての人に該当してしまうことである。「うちの母親は世界一だ」「いや、うちの母親のほうが上だ」といったランキング争いは論外として、「誰にとっても自分の母親は世界一だ」という安易な相対主義でもない。自分自身を除いた客観的な視点に安住することなく、生まれる国も時代も父親も母親も選ぶことができずに生まれてきた人間の存在の形式を端的に指摘しているのがこの歌である。

十億の人に十億の母がいる。兄妹を除けば、ここに言われている「母」とは、別人を指している。これは、「母」が2人称代名詞だからではなく、すべての1人称である「私」が存在することに基づく。例えば、「家に帰る」「学校へ行く」といったような言い回しにおいて、その「家」や「学校」は代名詞ではなく普通名詞であるが、それぞれ別の家や学校のことを指している。これと同じことである。近代社会の個人主義を貫徹すれば、論理的に夫婦別姓が推進され、戦前の「家制度」につながる考え方は否定されることになるが、話はそれほど簡単ではない。人間は自らの力によって生まれることはできず、気がついたときには母親によってこの世に存在させられている。その意味で、十億の自分はすべて何者でもなく、もしくは何者でもあるが、その十億の母もすべて何者でもなく、もしくは何者でもある。小難しいことを言わずに、親孝行をしていたほうが世の中平和である。

ちなみに、5月の第2日曜日は伝統的に司法試験の択一試験の日とされており、受験生の間では親不孝の日と言われている。試験問題の中では、母親は「1親等の直系血族の尊属」であるが、これを外で語ると感心されるか呆れられる。民法733条の再婚禁止期間は、憲法14条との関係でも重要論点である。また、民法772条の嫡出推定規定の解釈においては、「推定されない嫡出子」と「推定の及ばない子」を区別することが重要である。さらに、択一試験には相続のややこしい計算問題が出ることがあり、異母兄弟や隠し子が登場したり、子が母親を殺して相続欠格者となって孫に代襲相続が発生するような問題が出ることがある。このような問題を解く際には、「今年こそ合格して母親を安心させたい」という強い意志が大切になってくる。これをダブルスタンダードという。

京都舞鶴 高1女子殺害事件

2008-05-10 02:51:28 | 言語・論理・構造
京都府舞鶴市で高校1年生の小杉美穂さん(15)が殺害された事件について、新聞各社は母親の春美さんの手記をそのまま載せている。「なぜ、娘がこんな目に遭わなくてはいけないのでしょうか。被害にあった時に娘が味わった恐怖や痛み、苦しみを思うと、つらくてたまりません。ママ、助けて、助けて!と叫んでいたに違いありません。私が娘を助けてあげられなかったことが本当に残念でなりません。犯人に対する激しい憤りで胸が張り裂けそうです。何の落ち度もない娘に対し、暴力を振るった犯人が憎く、決して許せません。絶対に許すことはできません」。

例によって、その部分だけが違う文法によって浮き上がっている。まるで外国語のようである。その周りの記事はと言えば、「参院議院運営委員会は9日の理事会で、12日の参院本会議で行われる道路整備費財源特例法改正案の採決は、押しボタン方式で行うことを決めた」「携帯電話会社3社の2008年3月期連結決算が8日出そろい、KDDIとソフトバンクの携帯事業は売上高と営業利益がともに過去最高になった。一方、契約シェアの低下が続くNTTドコモは減収増益で勢いの差が出た」「米経済誌フォーブスは8日、日本の富豪40人を発表し、任天堂の山内溥相談役を初のトップに選んだ。資産総額は78億ドル(約8100億円)。家庭用ゲーム機Wii(ウィー)の好調な販売に支えられ、過去1年間に資産が30億ドル膨らんだとしている」といったようなものである。被害者遺族の手記の部分のみ、別世界に迷い込んだかのようである。

犯罪被害の問題を考えることは、この別世界に正面から向き合うことに他ならない。これは、現代社会の構造と合わない。それどころか、市場経済とっては害悪ですらある。従って、読める人には見事に読めるし、読めない人には全く読めない。「なぜこんな目に遭わなくてはいけないのか」という問いには答えようがなく、「胸が張り裂けそうです」という表現もプリミティブに過ぎ、「ママ、助けて、助けて!」と言われても対処に困る。そして、根本的な議論よりも実務的な対応策を好む現代社会では、すべてが解釈できるような形に解釈され、この別世界の存在は隠蔽される。しかしながら、遺族が24時間365日にわたって直面することになるのが、この別世界の言葉である。新聞は1日で忘れるが、遺族は毎日毎日直面する。これは、人間の生死に関する論理の要請である。「犯罪被害者の方々は深刻な被害を受けています。我々一人ひとりの問題として考えて行きましょう」といった偽善的な理論は、この別世界への立ち入りを厳しく拒絶される。

高度情報化社会では、毎日のように凶悪犯罪が新聞の社会面を飾っているが、それと同時に古い事件はあっという間に忘れ去られてゆく。世論を盛り上げて社会を動かすという政治的な手法は、単に熱しやすく冷めやすいという状況を招来し、その内容の空洞化につながっている。実に軽薄なものである。一時は全国が一色に染まった光市母子殺害事件についても、青学大の瀬尾佳美准教授へのバッシングといった場外乱闘も含めてすっかり沈静化した。このような「祭り」に熱中する人ほど、離れてゆくのも驚異的に早い。最近では、「まだ死刑ネタで引っ張るのか」と書かれたブログも見られるが、何のためらいもなく「ネタ」という表現を使って疑問を感じないのであれば、犯罪被害の問題の核心を捉え損なっている。犯罪被害の問題とは、国民のほとんどが忘れ去ろうとも、遺族が24時間365日にわたり、「私が娘を助けてあげられなかったことが本当に残念でなりません」「何の落ち度もない娘に対し暴力を振るった犯人が決して許せません」との別世界の言葉に直面し続けることである。この怒りと悲しみは論理の要請である。

小浜逸郎著 『「責任」はだれにあるのか』

2008-05-09 21:53:30 | 読書感想文
小浜逸郎著『「責任」はだれにあるのか』 と 伊藤真著『高校生からわかる日本国憲法の論点』との比較


● 『「責任」はだれにあるのか』 p.72~ より

現代の日本社会は、本来の「権利」の概念を無限に拡張して、ある権利の行使のためには必ずそれに見合った責任がともなうということを忘れた風潮が目立ちます。これは、日本国憲法に見られるような、「すべて人は平等で自由であり、これは天から与えられた永久の権利であって、誰も侵すことができない」という単純な「宣言」をそのまま鵜呑みにした子どもっぽい考え方にもとづいています。

欧米語では「権利」は「正しさ(right)」と同義語ですから、それは普遍的に認められた法的な「公正さ」というニュアンスをはじめからもっています。ところが現代の日本では、「権利」とか「人権」といった言葉は、そういう当然のロジックを無視するように乱用されています。もともと「right」という言葉には、西周によって「権理」という字があてがわれていたのですが、このほうがはるかに妥当だと言えるでしょう。「権利」では、ただの個人の欲求がそのまま認められるというニュアンスになってしまい、ちょっとひっくり返せば「利権」となってしまいます。

最近私は、新しく検定を通過した中学生の公民教科書を検討する機会があったのですが、その「サヨク」的惨状ぶりは凄まじく、国家の必要や法秩序との関係で「人権」を説いているものは、わずかの例外を除いてほとんどありませんでした。


● 『高校生からわかる日本国憲法の論点』 p.77~ より

幕末の頃まで「権利」という単語は日本に存在しませんでした。「権利」を意味する英語「right」を翻訳したのは、思想家の西周でした。ただし正確にいうと、彼が考案した訳語は「権理」でした。この「理」がいつの間にか利益の「利」に変わってしまったのですが、「権理」のほうが「right」の意味を正確に言い表しているといえます。「right」という単語には、「正しい」という意味もあるからです。

いまは「利」という文字を使っているため、「利益」「利己主義」といった連想が働きます。そのため「権利を主張する」というと、「自分勝手」「わがまま」などのイメージがつきまといますが、本当はそうではありません。権利とは「正しいこと」ですから、それが「人権」という言葉になれば、「人として正しいこと」を意味します。したがって憲法に人権規定が多いのは、決して国民のわがままを助長するためではなく、「人として正しいこと」を列挙しているからだと考えることができます。

理念として「正しいこと」である以上、私たちはそれを人類普遍の原理にすべく努力しなければなりません。日本国憲法も、それを「重要な価値と考えるべきだ」という主張をして、人権を規定しています。


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● 結論

特定の著者の本だけではなく、色々な著者の本を読めば、多角的な視点が得られる。しかし、単に混乱するだけであり、最初から両方とも読まないほうが良かったという場合が多い。

どのような本に感化されたかで、その人の一生が変わる。ただし、どのような本を読むかは、家族や先輩などの周囲の人間によって決定されていることが多い。

伊藤真氏の文章は驚異的に上手い。どんな文章でも、何も考えずにスラスラと読める。小林秀雄の文章とは正反対である。
http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/41.html (被害者参加制度に関する文章)

若い法律家や司法試験受験生の中には、伊藤真氏が古今東西で最も優れた哲学者だと信じている人がいる。



● うんちく

「権利」のほか、学術・科学・技術・芸術・哲学・主観・客観・本能・概念・観念・帰納・演繹・命題・肯定・否定・理性・悟性・現象・知覚・感覚・総合・分解などの訳語を考案したのも、思想家の西周 (にし・あまね 1829-1897)である。

被害者参加制度の意義

2008-05-07 22:12:14 | 実存・心理・宗教
昨年の6月20日に被害者参加制度関連法が成立し、今年度中には実施される見通しである。未だ詳細は明確ではないが、犯罪被害者や遺族が検察官の横に座り、証人尋問や被告人質問、求刑を含む意見陳述を行うことが認められそうである。この法律の実現は、全国犯罪被害者の会(あすの会)による粘り強い活動の成果であった。同会は、それまでの我が国の刑事司法の不当性を訴えて、55万人を超える署名を集めた。すなわち、我が国の司法はこれまで犯罪被害者を「証拠品」としてしか扱っておらず、その尊厳を置き去りにしてきたという主張である。これに対しては、日弁連を筆頭として反対論も強かった。刑事裁判の場に犯罪被害者や遺族の怒りを持ち込むことにより、刑事裁判が闘いの場となり、冷静で公平な審理が期待できなくなるというのが主な理由である。

犯罪被害者遺族の悲痛な叫びに対し、反対派の意見が噛み合っていないのは、問題の所在の深さが本能的に理解できていないからである。裁判とは社会的なシステムであるが、愛する者を通り魔や自動車事故で失うという経験は、個人の実存の絶対的孤独にかかわるものである。この経験は、相対的に捉えることができない。すなわち、人生の一回性の視点において、絶対的な個の問題として捉えなければ、本質が理解できない種類のものである。例えば、現代社会では様々な理由で悩みを抱え、自殺を考えている人が大勢いる。ここで、「世の中にはもっと苦しいのに一生懸命生きている人がいるんだよ」「世界には生きたいのに生きられない人が沢山いるんだよ」などと励まされたところで、全く説得力がない。死に至るほどの悩みとは、絶対的な個の問題だからである。被害者参加制度の反対派に説得力が欠けているのは、これと同じことである。

「愛する者がなぜ死ななければならなかったのか」という問いに答えを出すことは、遺された者の人生にとっては決定的に重要なことである。病気による死であれば、その発病に至った原因を詳しく知りたい。自殺であれば、彼をそこまで追い詰めたものは何かを明確に知っておきたい。そして、犯罪であれば、犯人がなぜそのような行為をしたのかを詳細に知りたい。すべては同じことである。この中核を置き去りにして、遺族の立ち直り、心のケア、犯人への赦し、改善更生と社会復帰などを論じたところで、深い問題は手付かずに残されたままである。愛する者の死は、生物学的な死とは別に、受け取る側の納得によって初めて死となる。人間の生命は、生物学的な命の側面とは別に、生活と人生を共にした関係性の中での命という側面も持っているからである。そうだとすれば、犯人の刑が決まることによって、被害者は初めて生物学的ではなく死ぬことができる。遺族が墓前に裁判の結果を報告せずにいられないことは、この真実を端的に表している。

遺族が検察官の横に座り、被告人質問をする行為は、心の奥から湧き出してくる率直な言葉によって、実存の絶対的孤独を語ることである。これは、加害者本人に対して述べられなければ意味がない。また、被告人に対して意見陳述をする行為は、遺された者の人生の文脈を探しつつ、遺族と人生を共にした関係性の中において被害者の生命を語ることである。これも、その絶望の深さを加害者に直接示さなければ意味がない。結果はともあれ、この実存的な問いをその問い自体において問わなければ、被害者も死ねないし、遺族も生きられない。被害者参加制度の実現を求める悲痛な叫びは、このような実存の深淵から吹き出したものである。被害者参加制度の反対派は、裁判参加によって遺族は被告人から逆恨みされる恐れがあると主張するが、余計なお世話である。実存的な深い問いに対して党派的な浅い返答をされても、議論は噛み合わない。

「後期高齢者」の呼称はなぜ嫌われるか

2008-05-06 20:49:12 | 言語・論理・構造
4月1日から、75歳以上を対象とする後期高齢者医療制度が開始され、4月15日(年金支給日)からは年金からの天引きも始まった。それ以来、全国各地において、保険証が届いていない、保険料徴収額が多く算定されている、封筒のデザインが訃報を連想させるといったトラブルが相次いでいる。週刊誌も、「長生きという地獄、絶対許さない!」「史上最悪の国家犯罪」などのタイトルによって、この状況をセンセーショナルに報じている。特に多くの人々の怒りを買ったのは、「後期高齢者」というお役所言葉の響きである。屈辱的な扱いだ、年寄りは早く死ねと言わんばかりではないか、まるで姥捨て山だといった批判が相次いだ。舛添厚生労働大臣は、急いで「長寿医療制度」と通称名を使うよう指示したが、中身を変えずに名前だけ変えるのかとの更なる批判を浴びた。

「後期高齢者医療制度」の呼称はなぜ嫌われるのか。それは、客観的な社会全体からの統計学的な位置付けだからである。「後期」における「前」と「後」、あるいは「高齢」における「高い」と「低い」、これらは全体的に視点を取った上でのメタファーである。物理的な何かが前後に並んでいるわけでもなく、高い物体と低い物体が存在するわけでもない。それにもかかわらず、この文法が言語ゲームとして成立すると、この世に高齢者や後期高齢者といった人間の集まりが具体的に存在するようになる。これに対して、「長寿」における「長い」と「短い」もメタファーであるが、これはあくまでも個人の側に視点を取っている。もちろん、いずれのメタファーをいずれの視点において使用するかについては単なる偶然である。しかしながら、言語ゲームとして文脈における使用法が固定してしまえば、言葉はそれ以外の意味を持たなくなる。

このような文脈において「後期高齢者」の響きが嫌われたのは、それがストレートに死を連想させたからである。人間の苦しみは、「生・老・病・死」の4つに分けられているように、老いの苦しみと死の苦しみとは明らかに質が異なる。老後の心配は主に経済的なものであるが、死の恐怖は経済でどうなるものでもない。そして、死の恐怖のほうが格段に大きいため、人間は通常、老後の経済的な心配をすることによって死の恐怖から目を逸らす。政府に対する「年寄りは早く死ねと言うのか」といった批判も、この構造を端的に表している。「天引き後の年金額では生活できない」との苦情の表明も同じである。人間が生きることは老いることであり、死に近づくことであるが、これは誰のせいでもなく、政府の責任でもない。しかしながら、これを社会全体からの統計学的な位置付けによって示されれば、やはり人間は黙っていられなくなる。

「高齢者」には死のイメージが付きまとうが、「長寿」には生のイメージが付きまとう。これは、我が国のメタファーを利用した言語ゲームにおいて完全に確立されている。言葉の使用法に自覚的な政治家や役人は、このような言語の構造を上手く使うことによって、社会内に実際に構造を作り上げる。小泉元首相による「抵抗勢力」はその成功例である。これに対して、今回の「長寿医療制度」は結果的に失敗であった。一度「後期高齢者医療制度」というショッキングな呼称を聞かされた後では、もはや人間の意識は元には戻らないからである。このような言い換えができるのならば、そもそも「高齢化社会」を「長寿社会」と言い換えることもできるはずであるが、それでは単におめでたいという話になり、何が問題だかわからなくなる。やはり国家の視点においては、「後期高齢者」というお役所言葉を使用しなければならず、個人の側の視点である「長寿」という言葉は文法的に使用できなかった。この文法を破ってしまえば、単なる偽善であると批判を浴びるのは当然である(もっとも、その偽善を看破した後には更なる絶望がある)。

伊藤真著 『高校生からわかる日本国憲法の論点』

2008-05-03 20:22:14 | 読書感想文
「被害者と加害者の人権」より引用 (p.104~105)

憲法は、32条から39条まで、被疑者と被告人の権利をきわめて細かく保障しています。1つには、明治憲法の時代に、拷問による自白の強制が行われるなど、それがあまりにもひどく侵害されたことへの反省から来ています。

そもそも憲法は、強者の弱者に対する理不尽なふるまいを禁じることに存在意義があり、その「強者と弱者」の力関係がもっともはっきりするのが、国家権力と被疑者・被告人の関係です。被疑者や被告人は、悪いことをしたと疑われているのですから、国家権力のみならず、国民からも白い目で見られ、下手をすれば石を投げられてしまうぐらい立場が弱い。その、もっとも弱い立場にいる人たちの人権がしっかり保障されるのなら、それより少しマシな立場にいる弱者の人権も当然守られるだろう。そのような意図のもとに、憲法は、「最弱者」である被疑者と被告人の人権を強く保障しているのです。

「加害者の人権ばかり強く保障されていて、被害者の人権が保障されていない」というのが改憲論者の言い分です。しかし、この批判は2つの点で憲法を誤解しています。まず、被害者の人権は、憲法の条文ですべて保障されています。たとえば被害者のプライバシーは13条で保障されていますし、被害者の「知る権利」は21条で保障されています。それでも被害者の人権が現実に守られていないとすれば、それは憲法のせいではありません。被害者を救済すべき国家の政策が、憲法に則った形で十分に実施されていないというだけの話です。

もう1つの誤解は、被疑者や被告人を「犯罪者」と決めつけている点です。有罪判決が確定するまでは無罪と推定されるのが、日本の刑事裁判の原則です。凶悪犯人だから弁護士をつけるのではなく、凶悪犯人かどうかわからないから弁護士をつけるのです。そして有罪判決が下されるときに、その判断の正しさを保証するのが、弁護士をつけて当事者の言い分を十分に聞いているかといった「適正な手続き」にほかなりません。

被害者の人権保障と被疑者・被告人の人権保障は、決して対立するものではありません。この問題を考えるときには、そのことをぜひ理解しておいてほしいと思います。

 
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今日は憲法記念日であるが、伊藤真氏は自ら「憲法の伝道師」と名乗っているところである。伊藤氏の文章は天才的に上手い。恐ろしく上手すぎて、突っ込みどころがない。「私の願いは、私の意見を押しつけることではなく、皆さん自身に自分の頭で憲法を考えていただくことです」。うん、その通りである。「被害者の人権が保障されていないという意見は、2つの点で憲法を誤解しています」。ああ、そうですか。「被害者の人権保障と被疑者・被告人の人権保障は、決して対立するものではありません」。なるほど、その通りですね。ソフトな語り口ですらすらと語られている間に、何となく変だなぁと思いながらも、いつの間にか読者も伊藤氏と同じ目線に立たされている。

憲法の根本的な意義・役割とは、権力に歯止めをかけるということである。このような命題は、その命題を理解することそのものによって価値中立的となり、客観性と実証性を帯びる。しかしながら、普通はこのような立場を護憲派と呼び、政治的には革新派と呼ばれる。通常、反体制や反権力の命題は、「国家権力による人権侵害がまかり通るのは民主主義社会全体の危機であり、自由と正義を実現するために断固として戦い抜くべきである」といった糾弾口調であるが、伊藤氏はそれと同じことを見事にソフトに語り切っている。それによって客観的な真理に気がつき、「そうだったのか!」と目から鱗が落ちる人が続出する。このような状況は、行き過ぎると洗脳やマインドコントロールになる。

伊藤氏は今や司法試験界のカリスマと呼ばれ、受験生や法科大学院生のほぼ100パーセントに名前が知られている。私も『シケタイ』は14冊全部持っている。若い法律家の間でも、伊藤氏の思想を尊敬している人は非常に多い。全共闘世代、団塊の世代の人権派弁護士が次々と減っていく中で、若い世代の人権派弁護士が誕生しているとすれば、その一端は伊藤氏の功績である。このような構造が続く限り、犯罪被害者の支援は、革新でないという意味で保守となり、左派でないという意味で右派となる。困ったものである。