犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

柳田邦男著 『「犠牲(サクリファイス)」への手紙』

2008-05-19 20:23:14 | 読書感想文
下記は、柳田邦男氏と河合隼雄氏(元文化庁長官・故人)の対談からの抜粋であり、自然科学万能論の弊害を指摘した箇所である。この内容は、そのまま社会科学である法律学、およびその実践である刑事司法制度にも妥当する。法律学は、社会的諸事象の1つである法について、科学的方法による観察・分析・考察を基にして、客観的法則性を把握する学問である。それゆえに、被害者の悲しみや不条理感は、この客観性と実証性を損なう要素であると位置づけられてきた。そして、決められた社会のルールの下で、遺族は黙って耐えなければならなかった。下記の科学主義への警告は、人間の一生を科学的方法によって扱うことの不可能を端的に示している。


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p.155

柳田: たとえば、若者が目の前で事故で死ぬ。そうすると自然科学はそれに対して実に明快に説明ができる。「この人は脳が挫傷して死にました」と。これは厳然たる科学的な事実ですね。しかし恋人は、「なんで死んだのよ」って泣き叫んでいる。それに対して医師が、「この人は脳が壊れて死にました」といって、それで答になるのだろうか。泣き叫んでいる彼女が、「あ、そうですか。わかりました」って納得するのだろうか。やっぱり、彼女は「なんで死んだのよ」と問いつづけるでしょう。これに対する答を、科学は出してくれないわけです。そうなると、人生の文脈というものを考えなければならなくなる。


p.192~

柳田: 第三者的に、つまり「3人称」の立場で、死とか脳死について論じるのであれば、冷静に科学の論理だけで論じることができると思うんですけれど、人生・生活を分かち合った相手だと、違う。今までの脳死論には、この「2人称」の視点が欠けていたのです。他人事ですませることのできる「3人称」の視点より、死にゆく人とかけがえのない関係性を持っている「2人称」の視点のほうが、はるかに重要であるにもかかわらず、脳死論の中で「2人称」の立場の人は無視されていたんですね。

河合: そうですね。自然科学というのは、対象を自分と切り離して研究しているわけで、そういう1つの研究方法があるということであって、それは非常に有効なんだけれども、限界がある。「2人称の死」とか「1人称の死」になってくると、科学では答えられないわけですよね。そうであるのに、科学的に正しいというだけで、われわれのいのちとか人生に踏み込でいいのか、それは、ものすごく大きな問題だと思いますね。

柳田: やはり科学でわかるところはこういうところですと。だけどそれは全体ではありません、断片です、というね。その認識の仕方は、科学者や医学者こそきちんと論じるべきなんですけれど、そういう人たちは、えてして科学はオールマイティーというか……。

河合: そうです。それは科学じゃなくて、科学主義になっているんです。つまり科学は全部正しくて、科学によって人間のことを全部考えられるというのは、1つの宗教みたいになってしまっているわけですね。だからそこのところを分けて考えないといけない。