犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 あとがき

2008-05-28 12:24:22 | 読書感想文
中嶋氏は弁護士かつ作家であり、専門知識を生かした作風が魅力である。専門知識を身に付けるとは、それを盲信することではない。どんなに弁護士法1条に「基本的人権の擁護」と書いてあったところで、人間は肩書きである以前に人間である。「犯罪被害者は暴力的な凶行で生身の不可分一体な被害を受けているのに、法的な場面になると、民刑分離の大原則で刑事被害者と民事被害者のふたつの身分に引き裂かれてしまう」(p.103)、この記述は中嶋氏ならではのものである。法律の専門知識がなければ、このような事実を指摘することはできない。逆に、専門知識がある多くの法律家にとっては、その知識ゆえにこのような事実をゼロから疑ってかかることができない。

民刑分離の大原則は、副次的にマニアックな論点を生んでいる。例えば、「不法原因給付と横領」という論点である。ある会社の上司が部下に対して、政治家に賄賂を渡すように命じ、大金を託した。ところが、その部下はそのお金を自分で使ってしまった。さて、部下に業務上横領罪(刑法253条)は成立するか。ここで、賄賂を託すような行為は不法原因給付にあたるので(民法708条)、上司は部下からお金を取り返す権利がない。従って、部下には上司に対する横領罪が成立すると考えると、民法と刑法がずれてしまう。そうかといって、このような部下が無罪放免というのも許しがたい。さあ困った、という問題である。民刑分離の大原則を立ててしまった以上、これは論理的に答えが出ない。犯罪者の思惑とは全く関係ないところで、民法学会と刑法学会の争いが続いている。

法律学は分析の学問である。民法の内部においても、私権はまずは物権と債権に分けられている。その上で、物権と債権は常に一緒に考えなければならないとされる。ここで、「買主は不可分一体の物を買っているのに、法的な場面になると、物権法による所有権移転と、債権法による代金債務・引渡債権の発生という2つの出来事に引き裂かれてしまう」という視点で問題意識を持つ人は少ない。物権と債権、2つのものが別々に「在る」と信じるのが法治国家だからである。従って、2つのものを別々に作って後からくっ付けようとして大騒ぎしているのならば、最初から分けなければいいといった突っ込みは聞かれない。かくして、単なる法技術であるはずのパンデクテンが実体化し、体系の維持が自己目的化し、人間は頭を悩ませる。

犯罪被害者にとって附帯私訴は非常に便利であるが、その実現にはまだまだ障害が多い。その障害が、民刑分離という近代法の大原則である。そこでは、民事裁判では犯人とされて賠償が命じられ、他方で刑事裁判では無罪放免となっても、両者は手続きが違うのだから不思議でも何でもないとの理屈が述べられる。しかしながら、これで終わりというのでは、体系の維持を自己目的化させた結果として、ゼロから自分の頭で考えることを放棄してしまったに等しい。中嶋氏からごく当たり前のことを指摘されると、あまりに当たり前すぎて虚を突かれる所以である。抽象的な近代法の大原則を取るか、現に目の前で涙を流している犯罪被害者を取るか、これは1人の人間としての倫理の問題である。専門家がその肩書きによって結論を先取りし、自らが正義であると喧伝している限り、それ以外の正義は逃げてゆく。

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