犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

柳田邦男著 『犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日』

2008-05-17 21:06:55 | 読書感想文
現代社会は、世界人権宣言や各国の憲法に定められているとおり、何よりも人間の生命を尊重する。これは必然的に、死者に対しては冷たい視線が向けられることを意味する。もちろん、意図的に死者を愚弄するつもりは毛頭ない。それにもかかわらず、「生」の対義語が「死」であり、「重さ」の対義語が「軽さ」である限り、「生命の重さ」はその反面において「死の軽さ」を含意する。

現代の医療にとって、死は敗北である。医師に対して求められている行為は、何よりも患者の救命であり、延命措置である。もちろん、この行為自体には何の問題もない。ところが、この「生命の重さ」の理論を前提とする限り、敗北した死者はどこまでも軽く扱われる。臓器移植法が施行されて10年以上が経ち、議論も下火になってしまったが、臓器移植に関する倫理的な問題の中核はこの点にある。「命のリレー」という美しい行為も、少しでも油断すれば、「新鮮な肝臓が欲しい」「どこかにいい腎臓がないか」という欲望に転化する危険を秘めている。

現代社会は人間の生命を尊重することによって、死者に対して冷酷な視線を向ける。この点において、臓器移植の問題と刑事裁判の問題は一致している。殺人罪や業務上過失致死罪の被害者は、人間の生命を尊重する思想においては、あくまでも敗者の地位に置かれる。そして、生死を見ずに生命を見る限り、どんなに凶悪な連続殺人を犯した加害者であっても、その生きている人間を中心に物事が捉えられることになる。そうなれば、いかなる凶悪犯人であっても、その者の生命を中心に物事が考えられる限り、死刑が執行できなくなる。


***************************************************
p.148~149より

私も理念としては、脳死をもって人の死としてよいのではないかと考えてきた。しかし、現実に脳死を人の死と認めると、日本の医療現場の現状では、タテマエのきれい事だけではすまないで、失うものも大きいという危惧を抱いている。なぜなら、死にゆく者の命も、臓器移植を待つ者の命も、等価であるはずなのに、脳死・臓器移植論のなかでは、死にゆく者の命=患者・家族全体を包む精神的ないのちのかけがえのない大切さに対しては、臓器移植を待つ者の命の1000分の1の顧慮も払われていないからだ。

ちなみに、脳死・臓器移植の推進論者である関西の某救急救命センターの医師は、「心臓移植をするところがあれば、いつでも提供できる」と豪語していると、同じ学会に所属する医師から聞いた。死にゆく脳死患者の臓器を自分がいつでも処理できるとは、なんという傲りだろうか。

集中治療室の看護婦の一人は、脳死のこどもを看護している際、ある教授が毎日やってきて、「まだ、死なないか」と聞くと言って怒っている。脳死が人の死とされると、この傾向はいっそう強化される。臨終の場はこれまでと様がわりする。家族は、静かに死別の悲しみにひたる間もなく、脳死によって人の死と判定された時点で、脳死者は死体となり臓器提供体として、運ばれて行くことになる。

死を大事にするとは、死にゆく時間を大事にすることだと思う。