犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

京都舞鶴 高1女子殺害事件

2008-05-10 02:51:28 | 言語・論理・構造
京都府舞鶴市で高校1年生の小杉美穂さん(15)が殺害された事件について、新聞各社は母親の春美さんの手記をそのまま載せている。「なぜ、娘がこんな目に遭わなくてはいけないのでしょうか。被害にあった時に娘が味わった恐怖や痛み、苦しみを思うと、つらくてたまりません。ママ、助けて、助けて!と叫んでいたに違いありません。私が娘を助けてあげられなかったことが本当に残念でなりません。犯人に対する激しい憤りで胸が張り裂けそうです。何の落ち度もない娘に対し、暴力を振るった犯人が憎く、決して許せません。絶対に許すことはできません」。

例によって、その部分だけが違う文法によって浮き上がっている。まるで外国語のようである。その周りの記事はと言えば、「参院議院運営委員会は9日の理事会で、12日の参院本会議で行われる道路整備費財源特例法改正案の採決は、押しボタン方式で行うことを決めた」「携帯電話会社3社の2008年3月期連結決算が8日出そろい、KDDIとソフトバンクの携帯事業は売上高と営業利益がともに過去最高になった。一方、契約シェアの低下が続くNTTドコモは減収増益で勢いの差が出た」「米経済誌フォーブスは8日、日本の富豪40人を発表し、任天堂の山内溥相談役を初のトップに選んだ。資産総額は78億ドル(約8100億円)。家庭用ゲーム機Wii(ウィー)の好調な販売に支えられ、過去1年間に資産が30億ドル膨らんだとしている」といったようなものである。被害者遺族の手記の部分のみ、別世界に迷い込んだかのようである。

犯罪被害の問題を考えることは、この別世界に正面から向き合うことに他ならない。これは、現代社会の構造と合わない。それどころか、市場経済とっては害悪ですらある。従って、読める人には見事に読めるし、読めない人には全く読めない。「なぜこんな目に遭わなくてはいけないのか」という問いには答えようがなく、「胸が張り裂けそうです」という表現もプリミティブに過ぎ、「ママ、助けて、助けて!」と言われても対処に困る。そして、根本的な議論よりも実務的な対応策を好む現代社会では、すべてが解釈できるような形に解釈され、この別世界の存在は隠蔽される。しかしながら、遺族が24時間365日にわたって直面することになるのが、この別世界の言葉である。新聞は1日で忘れるが、遺族は毎日毎日直面する。これは、人間の生死に関する論理の要請である。「犯罪被害者の方々は深刻な被害を受けています。我々一人ひとりの問題として考えて行きましょう」といった偽善的な理論は、この別世界への立ち入りを厳しく拒絶される。

高度情報化社会では、毎日のように凶悪犯罪が新聞の社会面を飾っているが、それと同時に古い事件はあっという間に忘れ去られてゆく。世論を盛り上げて社会を動かすという政治的な手法は、単に熱しやすく冷めやすいという状況を招来し、その内容の空洞化につながっている。実に軽薄なものである。一時は全国が一色に染まった光市母子殺害事件についても、青学大の瀬尾佳美准教授へのバッシングといった場外乱闘も含めてすっかり沈静化した。このような「祭り」に熱中する人ほど、離れてゆくのも驚異的に早い。最近では、「まだ死刑ネタで引っ張るのか」と書かれたブログも見られるが、何のためらいもなく「ネタ」という表現を使って疑問を感じないのであれば、犯罪被害の問題の核心を捉え損なっている。犯罪被害の問題とは、国民のほとんどが忘れ去ろうとも、遺族が24時間365日にわたり、「私が娘を助けてあげられなかったことが本当に残念でなりません」「何の落ち度もない娘に対し暴力を振るった犯人が決して許せません」との別世界の言葉に直面し続けることである。この怒りと悲しみは論理の要請である。