犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

自分がこの世に存在したことの証明

2008-05-25 14:34:34 | 実存・心理・宗教
人間が老齢やガンなどによって自らの死を意識した際に、抑えられない実存的な欲求として湧き上がってくるのが、自己確認の証しを立てておくことである。他の誰でもない自分がこの世に存在したこと、そして一生を全うしたこと、この証しを残しておかなければ死ぬに死ねない。これは、時には後世に名を残したいという現世的な野心の形を取ることもあるが、多くの場合には現世的なものを超えている。それは、単に自己目的であり自己完結であるが、生死の存在形式を前にすれば、それ以外の方法はない。その手記、自分史、闘病記などは、最後に「自分はなぜ死ななければならないのか」という永遠の問いを問いかける。この問いには答えがない。その自分史や闘病記を書くこと自体が答えである。

突然の事故や通り魔で命を奪われた人には、このような自分史や手記を書く時間がない。しかしながら、論理としては、このような理不尽な死に直面した者こそが、最も強く「自分はなぜ死ななければならなかったのか」という永遠の問いを問うはずである。天寿を全うした人、平均寿命を超えて生きた人、ある程度の身辺整理を終えた人に比べてみれば、この問いの発生は明らかである。これは、子どもであっても赤ちゃんであっても同じである。ところが、実際に被害に遭った本人は、この問いを問うことができない。論理としては存在するが、そのことによって同時に主体が消えている。従って、この問いは、遺された者において問われることになる。それは、死に意味を見出すことにより、それに至る人生全体に意味を見出すことである。また、遺された者自身の人生全体に意味を見出すことでもある。これも実存的に不可避の欲求である。

このような抑えられない実存的な行為の遂行に対して、最も障害となるのが、やはり近代社会の実証的な理論である。このような問いは、裁判においてはすべて「被害感情の強さ」として、文芸評論的に受け止められる。人間の実存の問題として血や涙を伴うものとして捉えられるのではなく、特定の基準によって批評される。こうなると、死に意味を見出さければならない遺族は、嫌でもその戦いに巻き込まれざるを得ない。愛する者の死が物理的世界の中に押し込められれば、その人生全体が、社会の全体主義の中に押し込められるからである。そして、愛する者の死体写真が証拠物として裁判記録に登場し、殺意の有無や死因うんぬんを論じるための材料とされ、挙句の果てに加害者の更生と社会復帰だけが目的だということになれば、人間の実存は耐え切れなくなって叫びを上げる。「遺族の感情的な厳罰の要求は裁判を誤らせる」といった水準で物事を見ている限り、この叫びの存在は気付かれない。

どのような人生にも意味がある。どんな人間でも存在する意味がある。これが人権論の中核的な思想であった。それにもかかわらず、この人権論は、被疑者・被告人の側において独占され、死者や遺族を軽視する形で用いられてきた。近年、国家権力の濫用から市民を守るという従来の語義を意識的に逸脱させ、被害者の側にも人権という概念が使用されていることは、この偽らざる生死の実感に基づいた叫びの効果の1つである。どのような人生であっても、社会的には何の功績も残していない人生であっても、その一生はそれだけで尊い。死によって初めて人生の全体が輪郭を持って固定され、生の長さが確定するというならば、その時点において初めて人生の意味が明らかになるはずである。その意味で、人権論の思想がそのまま妥当するのは、生きている者ではなく、むしろ死者である。これは、人間の実存において不可避的な欲求である。

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5 コメント

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Unknown (Unknown)
2008-05-25 16:44:33
ご意見に同意します。
犯罪被害者が理不尽な形でおかれてきたことが世間に認知されてきたことは、良かったと思います。
「人権」という言葉が○○イズムに都合良く使われすぎてきたと感じます。
もっと普遍的にどんな概念にも公平に使われるべきです。
これからもポイントをえぐり出すご意見を待っています。
お元気で
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ありがとうございます。 (某Y.ike)
2008-05-25 22:46:05
Unknown様
お忙しいところ、コメントを頂きまして、ありがとうございました。「人権」と言えば、「過去の苦い歴史の経験」と来るのでしょうが、犯罪被害者が理不尽な形でおかれてきたことも、「新たな苦い歴史の経験」でしょうね。今後とも、よろしくお願いします。
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なぜこの世にうまれたのか? (ゆうとまま)
2008-05-27 21:54:44
この記事はなんかいも繰り返し読み返しました。
(きちんと理解したかったからです)
漠然とした心の中のもやもやを(以前、おっしゃられていたように!)すとんと難しいながらも(苦笑)適切に代弁していただいてます。
 遺族はみんなそう思うのです。「何故死ぬべきなのか?あの子(あのひと)の人生はいったいなんだったのか?」それを知りたいと思う。本当に。だから
裁判をおこす。でも、おっしゃるとおり、裁判で話されるのは生きている被告のことであり、死んだものの
価値は遺族感情としかはかってもらえない(うまくかけないのですが・・)そのジレンマに遺族はまた
苦しむと思います。
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この記事を紹介していいですか? (ゆうとまま)
2008-05-27 21:59:06
是非、この記事を私が所属しているML(生命のメッセージ展)へしょうかいしていいでしょうか?
リンクで紹介したいとおもっています。
そのMLを見ておられる方の全部じゃないにしろ、
(いろいろな人がいますからね)かなりこの記事に共感する方が多いとおもえました。そしてまた、こころのもやもやを代弁してくれているような気がしました。
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是非。光栄です。 (某Y.ike)
2008-05-27 23:51:14
ゆうとまま様

移植日の目処がついたこと、本当に良かったと思います。無事に進むようお祈りしています。くれぐれもお大事に。

「執行猶予がつくとその間におとなしくしていれば 服役はない」というのは、その通りです。「禁錮以上の刑を受けた場合」に執行猶予が取り消されます。

生命のメッセージ展のHPはよく拝見しており、何らかの形でお役に立てればと思っておりました。現代社会は科学的なものの見方でガチガチになっていますが、哲学的なものの見方をすれば、少しは様相が変わり、出口が見えてくるかも知れません。そのための補助線が引ければと思います。
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