犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

別れの時間の必要性

2008-05-13 20:26:24 | 時間・生死・人生
遺族が近親者の死を自然の摂理として受け入れることができるのは、十分な看病をし、来るべき死別の瞬間に対して心の準備ができているときである。病気に対して十分に闘った。そろそろ苦しみから解放させてあげたい。看病も長くなれば疲れてくる。このような状況になれば、遺族も近親者の死をこの世の必然としてすんなりと受け入れることができる。「安らかに眠ってほしい」という言い古された表現も、それ以外に表現する言葉がないほど、人間の深い実感を伴ってくる。遺族が近親者の死に目に立ち会うことは、古今東西を通じて、人間において重要な意味を有している。それは、遺族が喪失感や挫折感から立ち直るためにも必要不可欠な時間である。

不慮の交通事故や通り魔的な犯罪によって近親者を失った者には、この必要不可欠な別れの時間が与えられていない。せめて最後にあと1回だけ会いたい、5分だけでも会ってお礼とお別れが言いたいといった最低限の願いすらかなえられない。犯罪被害者遺族の直面する問題は、この別れの時間が与えられなかった不条理の問いを問いとして正面から見据えることの内にある。人間は誰でも死ぬものであるにもかかわらず、別れの時間が与えられなければ、人間は近親者の死を自然の摂理として受け入れることができない。この点において、犯罪による突然の死は、自殺や自然災害による死と同じく、近親者に見守れらながらの安らかな死とは厳格な一線を画している。しかも、加害者である犯人が存在しているという点において、自殺や自然災害による死とも一線を画している。

人間は必ず死ぬ存在である以上、遺族は近親者の死を人間として腑に落ちる形で受け入れたい。これはすべての近親者の死に際して、遺族が直面する共通の問題である。しかしながら、犯罪による死・自殺・自然災害による死については、この共通項が最初から奪われている。のみならず、犯罪による死だけは、その後も近代社会の法治国家の理論がこの共通項を奪い続ける。目的論的な思考に基づいて実用性を重視する近代社会は、「どうすればいいのか」という政治的な問いに早急に答えを与えたがる。そして、刑事政策的な被告人の改善更生と社会復帰が中心的な課題に据えられると、遺族の赦しと立ち直りが社会的な要請として求められてくる。こうなってしまえば、遺族に別れの時間が与えられなかった不条理の問いを問うことなどできなくなる。修復的司法の理論は、その究極的な目的が遺族の被害感情を抑えて厳罰化を防ぐことに向けられており、この問いを真剣に問おうとはしない。

古来、人間は近親者の死の喪失感と悲しみから立ち直る方法として、見事な宗教的な儀式を確立してきた。例えば、仏教で言えば、お通夜、告別式、初七日、四十九日、一周忌、三回忌といったものである。これは、近代社会の論理においては非合理であるものの、近親者の死という現実を受け入れ、日常を生きる心の平静を徐々に取り戻していくための生活の知恵として、現代でも広く受け入れられている。ところが、犯罪による死は、この時間軸に対して別の無粋な時間軸を持ち込む。すなわち、48時間の逮捕、24時間の送検、10日間の勾留、10日の勾留延長、勾留理由開示、2ヶ月の被告人勾留、1ヶ月の勾留更新、第1回公判期日といったものである。凶悪事件になればなるほど、近代社会は加害者を中心とする構造を作り上げ、遺族における不条理の問いを邪険に扱おうとする。犯罪被害者遺族の心のケアというならば、まずはこの近代刑法の論理が一歩退かなければならない。