犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小笹芳央著 『会社の品格』

2008-05-15 20:29:23 | 読書感想文
会社とは、あくまでも人間が作った仕組みにすぎない(p.6)。それゆえに、法人として実体化された会社は、金儲けのみを考え、自己保身ばかりを考えて病んでいく。会社という存在を生み出したのは、単に人間の欲望である(p.24)。会社が地球上に存在したのは、あくまでも17世紀の東インド会社以降のことであり、時代や場所を超えた普遍的な原理ではない(p.18)。このような哲学的視点を持つことは、一般には日常生活が送りにくくなるものであるが、行き詰まった資本主義社会を生き抜くためには、むしろ強力な知恵となる。

会社法の条文においては、「社員」とは従業員のことではなく、株主のことを指す。一時期、「会社は誰のものか」という問いが流行ったことがあったが、これは会社が人間による発明品である限り、無意味な問いである。このような問いは、株主主権論とともに目立ってきたことからも明らかであるように、「会社は従業員のものではなく株主のものだ」という解答を前提としている(p.37)。こうなってくると、会社は経済合理軸だけで動くようになり、粉飾決算や蛸配当につながる(p.26)。そして、「投資家の信頼」という掛け声が大きくなるほど、従業員の労働意欲は低下し、セクショナリズムがますます進んでゆく(p.73)。

会社と同じように、「株主」や「従業員」も、具体的な人間ではなく、仕組みにすぎない(p.38)。従って、これらの存在は実体として固定しているように見えるが、現実には相互に錯綜している。例えば、A社の従業員がライバルのB社の株式を買い、B社の従業員がライバルのA社の株式を買っていれば、「株主」と「従業員」は入れ子式になる。いったい人間は何をやっているのかという感じである。こうなれば、自分の会社で働いて得た給料よりも、ライバル会社の株価の上昇によって儲けた額のほうが高いという妙な現象も生じてくる。それには、自分の会社で不祥事を起こして、ライバル会社の株価を上昇させるのが手っ取り早い。従業員がこのようなことをしている会社はつぶれる(p.55)。

人間が働くということは、意味のある仕事に使命感を持って取り組むことである。そして、使命感とは、文字通り「命を使う」ことである(p.130)。人間が生きるということは死に近付くことである以上、どこの会社で何の仕事をするのか、それは人間の人生そのものとなる。人間が働くのは、金儲けのためだけではない(p.122)。他者に貢献したい、世の中の役に立ちたい、自らの人生を充実させたいなどの様々な理由がある(p.44)。従って、「会社は従業員のものではなく株主のものである」と言われるのは、従業員にとっては人生を否定されるに等しい。すべての仕事が金儲けのための歯車となれば、従業員のモチベーションは下がる。金儲けの論理によって人生の一回性に基づくニヒリズムを埋めようとしても、そこには限界がある(p.57)。数値目標を掲げるような会社では、従業員はその会社で働く意味を見出せない(p.101)。

投資家の信頼を確保するために、従業員の不祥事を防止しようとし、従業員に対して企業倫理を教育することは、初めから考えが転倒している。従業員が自らの働く意味を会社に投影することができる組織においては、改めて愛社精神などと言われなくても、自ずと企業倫理は実現されているはずである(p.23)。ルール統制というものは性悪説を前提としている以上、イタチごっことなるばかりか、自らルールを守ろうとしている人の意欲までも削いでしまう(p.41)。投資家は金儲けのために財務諸表によって会社の「ヒト・モノ・カネ」を評価する。しかし、このような「ヒト」を「モノ・カネ」と並列させて平然としている感覚は恐ろしい(p.188)。会社とは、あくまでも人間が欲望を実現するために作った仕組みにすぎないからである(p.192)。