犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

言い返さずにはいられない

2007-10-18 20:25:26 | 実存・心理・宗教
日常的な喧嘩においても、メールにおける悪口やネットの煽り合いにおいても、古典的かつ最もメジャーなのが「死ね」という言い回しである。掲示板の「2ちゃんねる」の思わぬ影響で、「氏ね」「市ね」というバリエーションまで登場してしまった。どんなに小中学校で先生が一生懸命に教育をしても、この言い回しは消えない。それは言うまでもなく、「死ね」という悪口が効果的だからである。そして、それが効果的な悪口であると知っているからには、少なくとも生命の重さを前提としているからである。

言葉の暴力は実際の暴力よりも苦しい。これは実際に比較できる話ではないが、このような実感はもっともである。その中でも、「バカ」や「アホ」と比べて、「死ね」のインパクトは格段に大きい。「バカ」や「アホ」ならば、そのまま受け流しても大して問題はないが、「死ね」と言われれば、誰しも黙っていられない。死にたくないからである。生死の問題は人間の実存そのものであって、「死ね」と言われて言い返せなかったり、我慢してしまうことは、端的に実存不安を呼び起こす。すなわち、人間が「死ね」と言われて反射的に言い返すことは、生の衝動である。

誰しも「死ね」という言葉について、簡単に口にできる割には大きな打撃を与えることを知っている。これも実存不安を避けていることの裏返しであり、死を語らずに死を語っていることの表れである。だからこそ、人間はひとたび煽り合いとなれば、効果的な「死ね」を乱発したくなる。そして、それを聞かされた人間は瞬時に言い返さずにはいられなくなり、泥沼にはまる。ネット社会の到来により、このような争いは匿名化し、毎日毎日際限なく繰り広げられることとなった。このスパイラルは、言いかえれば実存不安と実存不安のぶつかり合いであり、実存不安を解消しようとして解消できないという空回りである。自らの死を遠ざけようと思って他者に「死ね」と言ったところが、それがそのまま自分に返ってしまい、引っ込みがつかなくなっている状態である。

戦争は国と国との争いであり、宗教と宗教の争いであるが、具体的に争っているのは人間である。個々の人間が実存不安を国家や民族への帰属によって解消しようとし、あるいはイデオロギーや宗教への信仰によって解消しようとしたとき、その実存不安が耐えきれなくなったところに紛争が起きる。その意味では、大きな戦争もネットでの煽り合いも、その根本は同じである。実際に殺すか否かの差にすぎない。人間が「死ね」と言われれば反射的に言い返したくなること、それゆえに人間は「死ね」と言いたくなること、「死ね」という悪口がこの世から消えないこと、すべては同根である。哲学的視点のない「心の教育」などでどうなるものでもない。

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