犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

役に立たない発見

2007-10-14 14:16:49 | 実存・心理・宗教
哲学者とは、科学者とは別の意味で「発見」をする人のことである。哲学者の行う発見とは、それまで人々に見えなかったものが、ある人物によって見えるようになることである。但し、それが役に立つ発見であるとは限らない。特に、ニーチェは役に立たない発見ばかりした人物であるとの評判が高い。ニーチェは人間心理の奥底まで、この世のほぼ全員があえて見ないようにしている場所に目を凝らし、観察を続けた。このようにして発見された事実は、それ以降はあるものは社会常識となって誰もが簡単に理解できるようになり、またあるものは触れてはならないタブーとして隠蔽されて忘れられる。

ニーチェの言っている役に立たないことの典型に、『曙光』の中の次のような一節がある。「他人の体験の場合それを眺めるのを常としているような眼で、われわれ自身の体験を眺めること、これはわれわれの心を極めて和らげるものであり、推奨するに値する薬品である。これに反して他人の体験を、あたかもそれがわれわれのものであるかのように眺め、受け取ること――同情の哲学の要求であるが――、これはわれわれを破壊に導くであろう、しかも短時間のうちに。まあそれを実験してみるがよい」。これは、人間のコミュニケーションが無意味だと言っているに等しいが、実に当たっている。

人間が自分の経験を熱心に語れば語るほど、その言葉は主観的になり、多くの人には関係のない話になる。そうかと言って、万人に妥当するように客観的に物事を語ろうとすれば、それはその人でなくても構わないことになり、ましてやその人の経験など無用の長物になる。民主主義や表現の自由は、いつもここで苦しんでいる。万全の準備をして選挙に立候補して落選した人は、いつも「時間が足りなかった」と言って悔しがる。これは本音の実感であろうが、法律で選挙期間を延ばせば他の候補の期間も増えるわけであり、時間不足は理由にならない。声をからして街頭演説をした挙句に落選した人は、いつも「有権者に伝わらなかった」と言う。これも有権者が演説を聞いた上で別の選択をしたわけだから、やはり理由にならない。多数決とはいつもこの程度の話であるが、何十年も飽きずに繰り返している。

犯罪の問題を民主主義や表現の自由の延長線上で語れば、必ず破綻する。これを明らかにするという点では、ニーチェの発見も少しは役に立つ。法律の文脈は、被害者は加害者に謝罪してもらえれば幸福であり、謝罪してもらえなければ不幸であるとの単純な論理から抜け出せない。しかしながら、謝罪されたらされたで、その先にもっと大きな不幸がある。加害者は被害者にはなれないし、被害者は加害者にはなれない。加害者は、どう頑張っても被害者の身になれないがゆえに、「私は被害者の身になろうとして努力しています」というポーズを見せればそれで済む。法治国家の論理はこの辺りが限界であるが、刑の量定に際してはこの程度の理屈で済んでしまう。しかし、ニーチェの洞察はここから始まる。この世のほとんどのトラブルは、自分は他人にはなれないことに基づく実存の絶望に端を発している。

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