犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「罪と罰」は実存の問題である

2007-10-20 20:28:24 | 実存・心理・宗教
犯罪者が自ら犯した事実を否認したくなる心情は、極めて実存的なものである。自白することは辛い。それは、赤の他人である警察官や検察官の取調べを受けることにより、実存の主体としての自分が否定されるからである。これは、犯罪者は被害者に対しては悪いことをしているが、警察官や検察官に対しては何も悪いことをしていないという構造に伴うものである。これに対して、否認をするならば、犯罪者はそこで実存を回復することができる。嘘をつけばつくほど、人生は主体的となる。そして、権力に逆らえば逆らうほど、人生は自律的となる。

権力に逆らう被告人は、「裁判を受ける」とは言わず、「裁判を闘う」と言うことが多い。これも、実存的な心情を率直に表している。自らの意思に反して裁判の場で裁かれることは、実存の主体としての自分が否定されることであり、人間はこれにはなかなか耐えられない。これに対して、自らの意思によって裁判を闘うという気持ちを持っているならば、被告人の実存は安定する。正義の闘いに挑むことは、人間的に楽しいと感じる経験である。期日と期日の間に詳細な戦略を練って、自己実現の場として裁判を楽しんでいる被告人の例は枚挙に暇がない。

ここで、被告人の実存を揺るがせる最大のものは、犯罪被害者の声である。赤の他人である警察官や検察官の取調べは、大上段に押し付けられるものであり、被告人自身の実存の反発を招くものでしかない。これに対して、他でもないこの自分の行為によって関係を生じた犯罪被害者の声は、そのような押し付けではない。1人の人間としての偽らざる実存の声であり、それはこの世に現に在る。被告人がこのような声を聞くならば、この世の中には自分1人が生きているわけではないという当たり前の事実を嫌でも認識させられる。他者の実存の声は、自己の実存の絶対性を不安定にさせる。

犯罪被害者の裁判参加によって、公平な裁判が害される危険性が生じると言われている。この立論は、法律学の理屈からは当然であるが、それ以上は深まらない。人間の実存的な部分を消して、「公平な裁判とは何か」という大上段の視点を取ろうとしても、「罪と罰」の問題は実存の相克でしかあり得ないからである。近代刑法による単純な人権論は、結果的に被害者の実存の声を消しつつ、被告人の実存の絶対性のみを主張させるという制度を招来した。これは、被害者の自然な行動を無理に抑制するのみならず、被告人の自然な行動としても不自然である。被告人は、赤の他人である警察官や検察官の取調べの前では「自白させられる」しかないが、犯罪被害者の前では「自白する」しかないからである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。