犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 第12章

2007-07-15 15:07:56 | 読書感想文
第12章 約束

岡村弁護士と岡本真寿美さんが公演をした日弁連の人権擁護大会においては、犯罪被害者の刑事裁判への参加に反対する一部の弁護士による反論が相次いだ。これは団体や大会の性質上、必然的である。ここで問題となるのは、弁護士という肩書きに基づく主義主張と、1人の人間としての倫理観との相克である。この対立に道筋をつけるのは、小手先のロジックやデータではなく、人間的に深い部分から根本的に説き起こす強靱な論理の力である。

犯罪被害者の刑事裁判への参加は、開始してみなければそのメリットもデメリットもわからない。始める前からあれこれ反対しても仕方がないことである。数年の試行錯誤を重ねた上で徐々に軌道に乗って行くことは、もとより承知の上である。ここでその試行錯誤すらも反対し、メリットとデメリットの判定の機会すらも奪おうとするならば、これは単なる原理主義の信仰にすぎない。期限を定めずに時期尚早だと言って反対することは、無限の先送りを意味する。流れの速い現代社会では、慎重な議論とは先送りによる廃案と同義であり、初めから真面目に議論する気がない場合に用いられる言葉である。被告人の人権を絶対的な原理に置き、そこからすべてを演繹するということは、犯罪被害者の問題は切り捨ててもやむを得ないという主張に他ならない。

岡村弁護士はこのように述べている。「結局のところ、被害者にこんなに惨めな思いをさせておいていいと考えるのか。それとも、被害者の尊厳を大事にして、その意見を聞いてあげよう、法廷にも参加させてあげようという、温かい気持ちを持てるのか。勝負はそこだと思います」。ここに、この問題のすべては言い尽くされている。このように言われてしまえば、反対派は正面からは反論できない。反対派の根底には、被告人の人権こそが唯一絶対的であり、被害者のことなど無視すべきであるという主張があるが、このように言ってしまえば負けである。そこで、反対派は様々なロジックを考え出す。

反対派は、被害者の刑事裁判への参加は、被害者自身のためにもならないと述べる。「復讐からは何も生まれない」という能書きもある。これは説得力がない。すべてはデメリットを過大評価した想像に基づくものにすぎず、反対のための反対に陥っているからである。被害者は蚊帳の中に入ることによって、初めてその先のことがわかる。蚊帳の中に入ってかえって傷ついたと感じることすら、蚊帳の中に入らなければわからない。入る前から傷つくと決め付けても仕方がない。物事は実行してみなければわからないに決まっているからである。被害者自身のためを思うのは、被害者自身でしかない。反対派が被害者自身のためを思ってくれても、それは余計なお世話である。

被害者がとにかく傷ついていたことは、蚊帳の外に置かれていたこと自体に基づくものである。従って、蚊帳の中に入って傷つくことは、もとより覚悟の上である。蚊帳の外に置かれて傷つくことよりも、蚊帳の中に入って傷つくことのほうが、まだ人間らしい傷つき方である。1人の人間としての存在が認められているからである。今回の法案の通過は、小手先のロジックによって勝利したというような安物ではない。

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