犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東直子著 『とりつくしま』

2007-07-12 15:47:47 | 読書感想文
文筆家と名乗り、哲学者と名乗ることを避けた池田晶子氏は、生涯にわたって、語り得ぬものを語る形式を模索し続けた。語り得ぬ最大のものとは、存在であり、人間の生死である。それは、端的に語り得ず、そのことによって示されるものである。従って、それを語ろうとすることは、それが上手く示されるような形式を探ることに他ならない。池田氏は、「哲学エッセイ」や「対話」という独特の文体を確立していたが、その他に「詩」という形式にも可能性を託していたようである。

歌人の東直子氏による小説『とりつくしま』は、池田氏が模索していた形式の1つを体現しているように思われる。埴谷雄高氏の長編小説『死霊』にその可能性を見ていた池田氏が、もし一般向けの易しい小説を書くとしたら、恐らくこのようなものになっただろう。そのような感じすら受ける。

語り得ぬものを語ろうとするとき、その言葉は詩に似る。前例のない着眼点とは、作為的に生み出せるものではない。そうとしかできない、それによって生み出される言葉が、結果的に前例のない着眼点となる。存在の謎から思索された作品は、アイディアがひらめくとか、そのような安っぽいものでは済まされない。人間が言葉を道具として表現するのではない。言葉が発現する形式を探した結果、それが人間を通して絞り出されてくるというのが正確である。もちろん、一度発現されてしまった言葉は、昔からそこにあったように感じられることになる。その意味で、この種の言葉は、厳しく読者を選ぶ。

犯罪被害者の遺族は、裁判官の口からどのような重い言葉が述べられるのかを期待して判決の傍聴に行ったところ、「命を奪われた被害者の苦痛や無念は察するに余りある」、「短い生涯を終えざるを得なかった被害者の無念は察するに余りある」といった数秒の説明で終わってしまったということが多い。実際に判決文を謄写してみると、本当に1行だけしか書かれておらず、定型文を使い回ししていることが明白となり、さらにがっかりする例も多い。このような判決文と、東氏の小説を比べてみると、犯罪被害者の言葉を正確に捉える形式として、お役所の公文書はミスキャストであることが明白になる。

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