犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

言葉はあいまいである

2007-07-11 18:00:53 | 言語・論理・構造
総務省の年金記録確認中央第三者委員会は、年金保険料を支払った証拠がない人への年金給付に対して、「原則として本人の主張が明らかに不合理ではなく、一応確からしい場合には支給対象にする」との基本方針を決めた。この「明らかに不合理ではなく」「一応確からしい」という基準については、例によってあいまいであるとの批判が起きている。それでは、どのようにしたらあいまいではなくなるのか。人間は言語によって、「一応確からしい」という基準以上のことを語りうるのか。これを真剣に考え詰めるならば、我々は社会保険庁を槍玉にあげて怒っていてもらちがあかないことがわかる。

法律とは当為命題(Sollen)であって、事実命題(Sein)ではない。これを言語ゲームの階層性という点から眺めてみると、別の様相が見えてくる。部分的言語ゲームについては、その中に入り切ってしまうとき、その言語ゲームは当為命題として表れる。しかし、一歩外に出てしまうと、それは事実命題でしかない。この点において、法律は事実命題とも捉えられる。これに対して、すべての基盤である1次的言語ゲームについては、その外に出ることを想定できない。従って、それは事実命題(Sein)と当為命題(Sollen)のすべてを成立させており、それ自体が事実命題か当為命題を問うことはできない。

このように部分的言語ゲームである法律の専門性が進むと、「法」と言葉とが別物のように思えてくる。細かい条文などなくても、人間は大昔からそれなりに生活できていた。ところが、法治国家における現代人は、この人類の歴史を忘れる。そして、細かい条文を作らないと気が済まなくなってしまう。ここでは、前期ウィトゲンシュタインの写像理論をさらに厳密にし、言葉を厳密に定義することが要求される。ソシュールによる言語論的転回はとりあえず忘れておいて、「言葉は物の名前である」という言語名称目録観に立つのが現代の法解釈であり、政治経済である。

現代社会における各種の知識の専門分化は、人間に部分的言語ゲームにおける厳密な定義が可能であるとの幻想を抱かせる。それが、「明らかに不合理ではなく」「一応確からしい」場合には年金を支給するという基準を大真面目で提示する総務省の委員会である。さらには、それが不明確であると批判する国民である。「言葉は物の名前である」という言語名称目録観に立ちつつ、年金の支給基準を言語によって述べようとするならば、これは1人の人間が一生かかっても終わらないほどの気が遠くなる仕事である。にもかかわらず人間は、それが可能であると思い込んでしまう。その結果として、六法全書とお役所の書類ばかりが厚くなる。

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