犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「死者が出る」という表現

2007-07-21 11:02:56 | 言語・論理・構造
昨日、地下鉄サリン事件の実行犯であるオウム真理教の横山真人被告の死刑が確定した。横山被告の長い裁判における最大の論点は、被告人がサリンを散布した車両では実際には死者が出ていないのに、死刑は重すぎるのではないかという点であった。最高裁も、「被告人の撒いたサリンによっては直接には死者が出なかったことを考慮しても、死刑はやむを得ない」と結論付けた。

これは、死刑の適用基準の判断としては、刑法学者に対して実に「興味深い」判例の素材を提供する。現在の日本では、「1人殺せば懲役10年、2人殺せば無期懲役、3人殺せば死刑」などと揶揄されることもあるが、神学論争を避けて実証性を維持しなければならない刑法学者は、「判例の集積を楽しみに待つ」しかない。その意味では、実際に被告人の撒いたサリンから死者が出ていないにもかかわらず、これを「3人殺せば死刑」に含めた最高裁の判断は、今後の先例として重要視されることになる。多くの刑法学者によって、最高裁の判決文の一言一句が分析され、1年のうちに多くの論文が誕生することが予想される。

死刑という哲学的な問題からその哲学的な部分を切り落とし、形而下的に役に立つ政策判断という視点で捉えるならば、最高裁の論理も刑法学の論理も立派に完結している。ところが、一歩哲学的な問題を直視するならば、刑法学者の姿勢はもちろんのこと、最高裁における問題の把握も、論点が全くずれていることがわかる。死刑というものを考えたときに、「被告人がサリンを散布した車両では実際には死者が出ていない」という文法は、必然的にカテゴリーエラーを生じる。この点に鈍感であるということは、ますます周辺部分の細かい議論の技術ばかりが発達して、肝心な中心部分が空洞になるという現代社会の構造に自覚的でないということである。犯罪被害者の声は、このような違和感の中から絞り出されて来た。

他の刑罰と死刑とが決定的に断絶しているのは、それが人間の生命に関する刑罰であり、執行されれば取り返しがつかない刑罰だからである。生命は世界に1つである、この点を見失ったまま死刑の適用基準を論じたところで、その絶望的に解決不可能な問題点を問題点としてそのまま把握できるわけがない。何らかの明確な死刑の適用基準についての解答があると思い込み、それを探しているとすれば、これは最初から問題の捉え方があらぬ方向に行っている。少なくとも、「死者が出る・死者が出ない」という表現を用いて死刑を論じる方法は、哲学的には論外である。刑法学は、哲学を抽象的で役立たずだと批判することが多いが、少なくとも死刑問題に関する限り、刑法学は役立たずである。この事実は、犯罪被害者の哲学的洞察を含んだ多くのコメントにおいて表れている。

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