犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

悪と戦えば偽善者になる

2007-06-21 19:04:27 | 実存・心理・宗教
法律学のカテゴリーは、あくまで社会科学の客観性を前提とする。一人一人の人権というカテゴリーも、その人間の人生にまでは踏み込まない。あくまでも、国家全体から見た市民の一人としての人権である。裁判における被告人の自己弁護の行動、それを正当な権利行使として認める裁判所、そのようなシステムを採用している法律に対して、被害者は強烈な違和感を持つ。その原因は、本来は個人の問題である善悪の話が、公的なものに置き換えられている点にある。

近代刑法は、何よりも誤判があってはならないことを大原則としている。富山における冤罪事件の反響は大きかった。無罪の推定の原則は憲法に詳細に書かれ、刑事訴訟法にも詳細に書かれ、裁判の法廷はそれに則って運営されている。従って、凶悪犯人が黙秘することも、否認することも、弁解することも、近代刑法の大原則からすれば正しい行動とされる。そのような行為を許容してこそ、裁判は冤罪を生まないようシステムとして確立されるからである。冤罪は絶対的な悪であり、それを防止する方向で働くものは善である。

しかし、法律学の文脈から一歩引いて眺めてみれば、本来は個人の問題である善悪の話が公的なものにすり替えられていることに気づく。凶悪犯人が黙秘することは、裁判所との関係では善とされるが、被害者との関係では悪にほかならない。その悪は、どんなに善を積み上げたとしても、根底に動かぬものとして存在する。真犯人の人生にとっては、罪を犯したならば人間として償うべきであるというだけの話であって、他の人間の冤罪は全く関係がない。富山の冤罪事件があろうとなかろうと、真犯人の人生にとっては、論理的に誤判の恐れはなく、冤罪の恐れもない。そして、冤罪か真犯人か否かは、真犯人本人が一番良く知っていることである。

国家権力を悪という地位に掲げる限り、被告人は善という地位に安住していられる。真犯人であっても、自分の罪を否認することは、社会全体から見れば善とされる。しかしながら、被告人が被害者に対して悪である限り、国家に対する善は偽善である。被害者が当然のこととして訴えているのは、この社会における当然の善悪の基準である。そして、近代刑法の裁判システムが採用している善悪の基準は、偽善と偽悪にすぎないということである。一人一人の人権というカテゴリーは、その人間の人生にまで踏み込めないからである。

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