犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

香西秀信著 『論より詭弁』 その2

2007-06-24 17:21:29 | 読書感想文
法律単語の厳密な定義は、事実を言語によって写像するものである。これは、前期ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』における思考法と似ているが、実際にやっていることは全く逆である。法律学のパラダイムは、あくまでも現実の出来事の存在を大前提としつつ、裁判の当事者を説得するためのレトリックとして、言葉というツールを駆使している。ここでは、言語が事実を規定するという言語論的転回を経ていない。従って、本来は順序などない現実の出来事について、言語によって線条的に写像しているという認識がない。

判決文の構造は、どれも定型的である。死刑を言い渡すか否かの選択は、判決文をいじることによって、簡単に変えることができる。「犯罪は極めて悲惨である。しかし、被告人には更生の余地がある」。このような順番にすれば、死刑を避けるという結論が導ける。これに対して、逆に「被告人には更生の余地がある。しかし、犯罪は極めて悲惨である」という順番にすれば、死刑に処するという結論が導ける。鍵括弧の中の単語は一言一句同じにしたまま、並び順だけを変えればよい。もちろん現実の判決文は、修飾句を駆使して説得力の増加に苦心しており、このような単純な構図は見破られないようにしている。しかしながら、判決文が長ければ長いほど、それは「結論先にありき」という逃れられない裁判の構造を証明してしまっている。最後は「論より詭弁」に落ち着く。

法律学は、レトリックとしての説得力を至上命題とするがゆえに、条文や判決文が言語であることを見落としてしまった。そして、「結論先にありき」という構造を隠そうとする。しかし、言語の意味は、どこまでも循環する。ある言葉が意味を持つということを、その言語で説明しても仕方がないし、別の言語で説明しても仕方がない。言葉が意味を持っていることは、端的に「わかる」というしかない。これは必然的な循環論法である。「言葉」という言葉は、「言葉」という単語の中を永遠に循環する。そして、「意味」という単語の意味は、「意味」という単語の中を永遠に循環する。言葉と意味は切り離せない。

いかなる長い判決文も、すべては言語記号の組み合わせである。言語には意味があり、言語の組み合わせにも意味がある。言語が事実を規定するという言語論的転回を経てみれば、裁判における「結論先にありき」という構造も必然的であることがわかる。裁判の判決文は、当事者を説得するためのレトリックを駆使しているが、敗訴者を完全に納得させることなどできない。どんなに乱暴な判決文も、勝訴者の手にかかれば善意に解釈してもらえる。これに対して、どんなに丁寧な判決文も、敗訴者の手にかかれば揚げ足を取られて非難される。これも必然的である。やはり最後は「論より詭弁」である。

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