犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『新・考えるヒント』 第9章「考えるということ」より

2007-06-28 18:56:14 | 読書感想文
法律家の思考方法は、分析的な条文で完全に固められている。どんなに悲惨な犯罪が起きても、最初から最後まで「現行法上仕方がない」の一点張りであり、そこから絶対に動かないし、動けないのが法律家である。法律言語を使いこなせなければ法律家が務まらず、主観的な感情ではなく客観的な条文を信頼しなければ仕事にならないからである。これは、一般人が知らないことを知っているというプロ意識と、強烈なエリート意識に裏打ちされている。明確な専門用語を扱える法律家と、不明確な日常言語しか知らない一般人という構図である。

被害者遺族が裁判を傍聴しても、専門用語ばかりでよくわからないのは当然である。刑法学は、犯罪という人間的な現象について、その根本の部分を取り扱うことを放棄した。そして、人間的でない部分について、非常に細かい議論を展開している。それが殺意の認定の問題となると、裁判は2年も3年もかかってしまう。犯罪被害者が蚊帳の外に置かれ、疎外感を味わってきたことには、単なる制度論に止まらない原因がある。以下の「哲学の専門用語」は、そのまま「法律学の専門用語」と読み替えることができる。


p.132~ より抜粋

考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わることだ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう。なぜ、学問が、生活常識から浮き上って形式化し、「物しりたち」の業となるか、学者が、その考え方のうちに、生活常識への侮蔑を秘めており、これに気がついていないからである。

生活常識への侮蔑を秘めていながら、これに気がつかない。だからこそ、生活と学問との架橋が求められているなどの寝言のひとつも出てくるというわけだ。生活常識を感じ、驚き、これについて考えるという基本的な思惟の営みに、専門用語も哲学者の名も、まったく無用である。

カントもヘーゲルも、生活常識からはほど遠い言葉遣いによって説いているが、あれら専門用語は、常識を思惟するというまさにそのことの困難から生じるもので、もし用語が先にあるとするなら、人が思惟する余地などどこにあることになるのか。

言葉の研究は哲学の基本でもある。いや研究というから、言葉を外から恣意的に玩弄できるかのように聞こえるが、人は言葉を使うことで言葉に使われているのが真相なのだから、やはり人は言葉と交わる、交情し交感するのだというのが事態に近いだろう。繰返すが、哲学上の専門用語などというものは、存在を捉え存在を思惟する本物の学者にとっては、あくまでも二次的な作りものにすぎない。思惟せずに思惟を口真似するものだけが、それらの言葉を一次的のものと解し、その表面の意味を玩弄するのである。

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