犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 第4章

2007-06-26 17:19:41 | 読書感想文
第4章 二つの動き

被害者参加制度をめぐっては、岡村勲さんが代表を務める「全国犯罪被害者の会(あすの会)」と、片山徒有さんが代表を務める「被害者と司法を考える会」とで政治的な対立が生じてしまった。犯罪被害者の団体同士がこのように政治的に対立し、自分は正しい、あなたは間違っていると主張し合うことは、非常に残念なことである。犯罪被害の根本にある哲学的な問題は、政治的な議論とは最も遠いところにある。

岡村さんの主張と片山さんの主張について、政治的な対立を抜きにして純論理的に比較してみた場合、哲学的な深さとしては圧倒的に岡村さんに分がある。岡村さんの原点は、とにかく人間が「もし自分が被害者になったらどうするのか」という認識を持つことであり、その時に人間であればどのように行動するのが普遍的であるのかを考えることであり、すべてはそこからの演繹である。軸がぶれていない。片山さん側の反対意見、すなわち①被害者の負担が大きい、②法廷で被告人から落ち度を追及される恐れがある、③参加しなかった場合に処罰感情が薄いと受け取られかねない、④裁判終了後に被告人から報復される危険があるなどといった問題点は、どこまで行っても表面的な利害をめぐるトラブルの話である。

被害者が裁判に参加することにより、表面的には被害者が被告人に向き合い、被告人が被害者に向き合うことになる。しかし、岡村さんがこの制度に期待しているのは、その先の効果である。被告人が被害者に向き合うことによって、被告人は自分の犯した罪と向き合わなければならなくなる。そして、自分自身と向き合わなければならなくなる。被害者が被告人に向き合うのは、そもそも被告人が自分自身と向き合うための契機に他ならない。その契機に伴う弊害ばかりに議論が集中しても、技術的で深みのない細分化した議論に陥ってしまう。この点において、岡村さんの主張と片山さんの主張とは噛み合っていなかった。

これまで被告人が自分自身やその罪と向き合わずに逃げることができたのは、検察官に向き合うだけで済み、被害者に向き合うことを避けることができたからである。それは、1人の人間としての倫理観に直面する苦しさを避けて、自らを誤魔化し続けることに他ならなかった。被告人が何よりも見つめるべきは自らの罪であって、被害者の面前に立たされれば、人間の倫理はそこから逃げることを許さない。ここで、被告人から被害者への報復の危険に論点が移ってしまうならば、議論のレベルはあまりにも低くなる。

被害者の中には、裁判に参加したいと参加したくない人の双方がいるのは当然のことである。片山さんがそのことを理由として被害者参加制度の導入に反対するというのは、あまりよく意味がわからない。参加したくない人は、単に参加しなければよいだけの話である。それがなぜ、参加したい人が参加することまでを制限する論理に飛んでしまうのか。この辺りを説得的に説明できていない以上、哲学的な深さとしては岡村さんに分がある。今回の刑事訴訟法改正が実現したのは、最終的にはこの点の差が出たものと思われる。

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