犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

社会的・関係的な人間存在

2007-02-25 18:32:03 | 国家・政治・刑罰
ヘーゲルの大哲学者たる所以は、法律学も社会学も心理学も含んだ壮大な体系を、一挙に弁証法によって説明したことである。そこで扱われる人間像は、抽象的なそれではなく、社会的・関係的な人間の存在の形式である。

ヘーゲルはまず端的に、人間の自我の欲望を直視する。その欲望は他者の承認を前提とするが、それはすべての人間にとって当てはまる。ここに自己と他者の弁証法的な反転が起きる。自分とは、他者にとっては他者である。すべての自己は、「他者の他者」である。人間はこのようにしか存在できない。

このような空間では、他者を否定したいという欲望(Sein)、それを否定されたくないという欲望(Nicht)が人間相互間において網の目のように拡がり、そこからルールとしての国家による「否定の否定」(Werden)が自然に出てくる。それが法律である。ここでは、単に自己と他者を含む人間の集まりが国家であって、「国家権力」として対象化することは不可能である。国家権力と戦うという行為自体が、論理的に存在し得ない。

ヘーゲルが見抜いた人間の社会的・関係的な存在の形式からすれば、被害者の不在という制度設計は、人間社会の自然的なあり方に反していることがよくわかる。近代刑法のパラダイムは、「加害者と被害者」という枠組みを隠して、「被告人と国家権力」という枠組みに捉え直した。罪を犯した人間が、「加害者」「犯人」という肩書きを背負わずに済むようになり、「被疑者」「被告人」という肩書きを背負わされることとなった。これが、被害者が見落とされることになった最初の原因である。

人間の社会的・関係的な存在の形式からすれば、人間が多数集まって国家を形成するのであって、国家とは人間の集まりという定義以上のものではない。他者の延長が国家である。従って、加害者が他者である被害者の存在を飛ばして、国家権力と対峙するという構造は、必然的に背理を生ずる。「被疑者」「被告人」という肩書きは、論理的に「加害者」「犯人」という肩書きの後にしか存在し得ないからである。

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