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“男のためのガーデニング”改め

船岡山「阿賀神社」の磐座~滋賀県東近江市~

2021-01-20 06:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 旧八日市の「阿賀神社」といえば霊山・赤神山の中腹にある通称「太郎坊」ということになりますが、「太郎坊」からさほど遠くはない船岡山の麓にもう一つの「阿賀神社」があります。
2つの「阿賀神社」の関係は分からないものの、両社に共通する夫婦岩や磐座があることから、船岡山の阿賀神社は太郎坊宮の里宮のような位置付けだったのかもしれません。

船岡山 阿賀神社の縁起によると“古老の傳言によれば、天正年間より小脇村にて協同祭典守護して...”とあり、御祭神として「猿田毘古神」を祀っているという。
太郎坊権現として祀られる猿田毘古神も鼻が長い天狗の姿なので関連は深いと思われ、滋賀県神社庁では御祭神を太郎坊宮と同じ「天忍穂耳命」としている。



東近江市に入った頃から霧が出ていて視界が狭かったものの、神社に付くころになると少し霧が晴れてくる。
この辺りは修験道の色濃い地域ということもあって、神秘的に霧に包まれた神社に神々しさを感じてしまう。



鳥居の前の道路は車の通行量がそこそこある道でしたが、鳥居を抜けて参道を進むと森に囲まれた静寂の世界が拡がる。
木の下を通ると前日の雨の雫が木々から落ちてくるのが困りものでしたが、朝の冷たい空気が心地よい。



拝殿から本殿へ向かう間には大きな磐座が祀られています。
この一帯には「太郎坊宮」「瓦屋寺」など巨石の多い「赤神山」、聖徳太子が十三体の仏を刻んだといわれる岩戸山十三仏のある「岩戸山(箕作山)」など巨石が多く見られる山が多い。
それゆえ山に対する信仰や磐座信仰の色濃い地方だったのかと思います。



一間社流造のこじんまりとした本殿は、山を背にした境界に建てられており、社を拝むのはすなわち山を拝むことになる。
社殿は明治元年(1868年)に移転するも、本社の改築によって明治31年(1898年)に元の地に戻ったと縁起にあります。



この船岡山 阿賀神社でどうしても見たかったのは、小宮の小さな祠を包み込む巨石で、それらは鳥居のすぐ奥に祀られている。
雲に覆われていた太陽の光が差し込み始めて、清々しい空気が漂い始める。



「赤神山 阿賀神社」と「船岡山 阿賀神社」の関係の深さは、「夫婦岩」のように屹立している巨石から伺えます。
祠へは2枚の大岩の間を通って石段を登り、祠の裏側にも巨石があります。
太郎坊宮の夫婦岩ほどは大きくはないものの、左右後方ともに見上げるような巨石です。





「赤神山 阿賀神社」の夫婦岩は岩と岩の間の約80cmほどの隙間を抜けて本殿へとお参りするのですが、「船岡山 阿賀神社」も岩と岩の間を進んだところに祠がある。
岩の間をすり抜けることで禊をしていると言え、奥に祀られた祠は里で参拝できる里宮として祀られたのかもしれません。





船岡山は、大海人皇子と額田王の有名な相聞歌の舞台となった地とされており、船岡山を少し登ると巨石に埋め込まれた「万葉歌碑」があります。
磐座ともいえる巨石に歌碑を埋め込んでしまったことには賛否両論がありますが、万葉の世界を訴えかけたかったのでしょう。

『あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る』(額田王)
『紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我れ恋ひめやも』(大海人皇子)





万葉集は漢字で書かれていますから、現代語訳がないと何が書いてあるか理解できないのが悲しいところ。
かといって、平安期以降の草書体も読みづらい。



歌碑の横にある巨石の上には石灯籠が建っている。
強風とかで倒れないのかと余計な心配をしてしまいますが、大丈夫なのでしょうかね。



船岡山は標高152mの山というよりも丘といった感じで、ここが頂上なのかどうかも分かりませんが、三角点があるのを発見。
途中で「岩戸山十三仏」への分岐があったが、細い石段の道が続き、前日の雨でぬかるんでいたため進まず。



阿賀神社の横には「万葉の森 船岡山」という整備された公園があり、万葉の昔に遊猟や薬草摘みを描いた巨大なレリーフがありました。
蒲生野に万葉のロマンが花開いた時期は、天智天皇の「大津京」の時代。
難題が山積みだった天智天皇にとっての蒲生野は、ほっと気が休まる場所だったのかもしれません。



万葉の森には、万葉集に詠まれた歌碑と植物約100種が植えられた万葉植物園があり、季節柄花は咲いていなかったものの、近くからカッカッカッとジョウビタキの声がする。
木の陰に隠れてカメラを向けると綺麗な姿を1枚撮らせてくれました。



「万葉集」の時代から約1200年も下った「令和」の時代に生きる我々ですが、「令和」は万葉集巻五に収録された梅花の歌の「序」から選ばれたといわれます。
大伴旅人が書いた序文の中にある『初春令月 氣淑風和(新春の令(よい)月、空気は美しく風は和かに)』から「令」と「和」が抜き出されたということだそうです。

『初春月 氣淑風 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香』


コメント
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