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承久の乱(1221年)は、後鳥羽上皇と鎌倉幕府執権の北条義時の争いとされており、北条氏による執権政治の始まりとなった戦だと歴史に残ります。
佐々木信綱が道元禅師に供養をお願いしたのは1237年。
1240年には七堂伽藍が完成し、1243円には永平寺の直末となり、曹洞宗第三の古道場とまで称された巨刹となったようです。
また興聖寺は1598年まで永平寺の別格兼務地だったと寺伝にあります。
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佐々木信綱は宇多天皇の直系とされる人物で、その曾孫の朽木義綱が「朽木氏」として当地を統治したとされ、朽木氏は戦国時代を経て廃藩置県まで続いた家系のようです。
室町時代の第一二代将軍「足利義晴」は当地に3年、第一三代将軍「義輝」は6年半滞在されたといいます。
現在は寂れた感のある湖西地域は、かつては畿内と若狭湾・北陸地方を結ぶ鯖街道が通り、京都との繋がりが深い地域だったのでしょう。
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スローブになっている参道を登っていくと、山門がみえてきます。
興聖寺は元々安曇川を挟んだ対岸にあったそうですが、江戸時代に大火にあって現在地に移ってきたそうです。
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石標に「承陽大師 開闢道場」と彫られてあり、「承陽大師」とは道元禅師の諡号。「開闢道場」としての開山は永平2世孤雲懐弉禅師とされているそうです。
また興聖寺は京都宇治市にも同名の寺院がありますが、宇治の興聖寺は道元禅師が開山した最初の修行道場であり、由緒ある寺号をいただいていることからかつての繁栄ぶりが忍ばれます。
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寺院のパンフレットに司馬遼太郎の「街道をゆく」の一文が紹介されています。
“むかしは近江における曹洞宗の巨刹としてさかえたらしいが、いまは本堂と庫裡それに鐘楼といったものがおもな建造物にあるにすぎない”
確かにかつてあったという七堂伽藍などの繁栄ぶりは想像がつかないひっそりと山村に佇んでいるような寺院でした。
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鐘楼は諸堂の中で最も古い建築物だそうですが、時代は分らない。
頭貫の上で支える邪鬼がいますが、痛みが激しかったのか左腕が肩から取れていますね。
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興聖寺の本堂は古い建築ではなさそうですが、京都宇治の興聖寺の法堂を意識した造りになっています。
道元禅師が朽木の里を伏見深草の興聖寺に似ているから高巌山興聖寺とするよう勧奨したという故事にならったということなのでしょう。
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本堂外陣は非常に煌びやかな雰囲気となっており、内陣へ入ると須弥壇への階段を上がり釈迦如来坐像(平安後期・重文・像高87cm)を間近で拝むことができます。
釈迦如来像の左には普賢菩薩像、右に文殊菩薩像と脇侍を配した釈迦三尊となっていますが、この近さ同じ高さで拝めるのはあまりありませんので大変ありがたい気持ちになります。
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右の脇陣には禅宗らしく一六羅漢像が並んでおり、左の脇陣には観音像が33躰ありましたが、これは西国三十三所巡礼を意識して奉納された仏像なのかと思います。
後陣には歴代住職の位牌が並び、中央に道元禅師と孤雲懐奘(永平寺第2世、興聖寺開山、諡号:道光普照国師)の仏像が並びます。
道元禅師の仏像は元々は古い仏像があったそうですが、安置されている仏像は新しいものになっています。
これは永平寺の堂宇の火災で仏像が焼けたために興聖寺で祀っていた道元像を永平寺に出したことによるものだそうです。
代わりに孤雲懐奘の頭部だけをもらい、躰を後補で付けたが微妙に大きさが違うと御住職が残念そうにおっしゃっておられました。
後陣に安置されている仏像には他に「縛り不動明王坐像」が安置されています。
千早城の戦い(1333年)で朽木時経が北条高時の命により焼き討ちをした際に、倒幕運動に呼応した楠木正成の念持仏だったとされるものを持ち帰り、興聖寺の鎮守として祀っているといいます。
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ところで、興聖寺には第一二代将軍・足利義晴が滞在されていた時代があり、その時に佐々木一族や京極高秀、浅井亮政、朝倉孝景の協力で京都銀閣寺の庭園を元に「旧秀隣寺庭園(足利庭園)を作庭したとされます。
巨大な杉の大木の前の石標には「足利将軍義晴公之庭園」と刻まれておりますが、かつてはもっと見晴らしがよく、安曇川の清流と蛇谷ヶ峰を借景とした庭園だったのだろうと思われます。
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庭園の端まで来ると、蛇谷ヶ峰(901m)と鏡のような水田の美しい景色がありました。
個人的には庭園よりもこういった風景の方が楽しめるかな。
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あくまで印象の話ですが、滋賀県には浄土真宗各派の寺院が多くあるように思われる中、南西・南東には天台宗寺院が多く、福井県に近い地域には曹洞宗の寺院が多いように感じられます。
さほど広くはない滋賀県の中で、それぞれの地域ごとに宗派の分布がみられるのはなぜなのか?調べてみると面白いかもしれませんね。
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