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御朱印蒐集~岐阜県不破郡 朝倉山 真禅院~

2018-05-21 07:30:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 明治の廃仏毀釈までは神仏習合思想により神宮寺(神社に建てられた寺院)が数多くあったとされます。
神仏習合の時代には神社の祭祀を僧侶が行う事があったとされますが、今では想像が付かないような祭祀ですね。

神宮寺とされる寺院は廃仏毀釈によって廃寺になったり、神社へと転向したりして数を減らしていったようですが、一つには神宮寺は檀家を持たない寺院であったことも影響していたのかもしれません。
岐阜県垂井町にある「真禅院」は美濃国一宮「南宮大社」の神宮寺だった寺院で、南宮大社から1㌔ほど離れた場所に現在は建てられています。



真禅院は寺伝によると739年に行基によって創建されたとされ、2回の移転と寺名変更をされ現在も残る寺院になります。
1回目の移転・寺名変更は、桓武天皇の勅命により最澄によって南宮大社と両部習合(神仏習合)され現在の南宮大社地に移転され寺名を「神宮寺」に改めて、天台宗の寺院となった時と伝わります。



岐阜県垂井の地は関ヶ原の合戦で知られる関ヶ原町とは目と鼻の先になり、合戦場に含まれる地域であったことから、合戦時には諸堂が兵火によって灰塵に帰してしまったといいます。
再興されたのは1642年、徳川家光から金7000両を支給されて再建されたようです。



2回目の移転・寺名変更は明治の神仏判然令(神仏分離令)の時。
南宮山にあった22堂塔を10堂塔に統廃合して現在地に移転して、寺名を「真禅院」に改めています。
その際には、現在寺院のある宮代村の方々による4年間の奉仕作業があったようです。



真禅院は元神宮寺だったため檀家はないということでしたが、保存修理中の堂宇があったり境内の他の堂宇も手入れが行き届いた清涼感のある寺院でした。
趣のある石段を登り、まず手水で清めた後に鐘楼へと向かいます。



梵鐘は、奈良時代に奈良の地で鋳造されたとされており、美濃国・東海地区で最古の鐘だとされています。
この梵鐘は1300年間に渡って撞かれてきたため、撞座部分が薄くなってきており割れる怖れがあるとのことで「除夜の鐘」の時にしか撞けないことになっています。
これは梵鐘が国の重要文化財になっているため、文化庁の指導によるものなんだそうですね。



境内で一際目を引くのは、やはり三重塔になります。
高さ約25mの塔は1642年に再興されており、国の重要文化財に指定されています。

この三重塔は関ヶ原の合戦で焼けた後、3代徳川将軍・家光の寄進により南宮大社に再建したものを神仏分離令の際に当地に移築したものとされています。
遷宮式の際には春日局が家光の代参で来られたそうですが、合戦で亡くなった方々の菩提を弔う意味もあったのでしょう。





真禅院が神宮寺だったことがよく分かるのは、山門や堂にしめ縄が掛けられていることでしょうか。
三重塔の登閣には神鏡が祀られ、しめ縄が掛けられていました。



境内にはいくつかの堂宇がありますが、点在するというより寄り添って建てられているといった印象で諸堂が並んでいます。
本尊に薬師如来を祀る薬師堂は、屋根以外は建てられた当時のままのようにも見える古寺感がありますね。



同じように古寺感のある釈迦堂には弁財天と釈迦如来が祀られているとされます。
釈迦堂も屋根は綺麗に屋根が葺かれていますので、近年になっても寄進される方が多いのだろうと思います。



護摩堂(不動堂)には一三仏なのでしょうか?不動明王と眷属の矜羯羅童子と制多迦童子の後方に12の仏像が安置されていました。





平成の大修理中だったのが本地堂でした。
本地堂という名は、南宮大社の本地仏を祀っていた堂だったことを示していると思いますが、この堂も家光によって再建された堂で、現在は重要文化財の指定を受けています。



真禅院の本堂にあたると思われるのが、御本尊の十一面観音菩薩像を祀る観音堂になります。
ただし十一面観音像は10年に一度の御開帳となる秘仏で、次回は2020年になるとのことで拝観は出来ません。
それまでは手水舎にあった十一面観音像から推測するしかないようです。



境内には経緯は分かりませんが、空也上人の歌碑があります。
読み取ろうとしたものの、一部しか読み取ることができませんでした。
大人の教養として、草書体が読めるようになりたいですね。

「唱ふ連(れ)は 佛も我もなかりけれ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」(HP)

 

真禅院への入山は表参道から入りましたが、帰りは脇参道からとしました。
両道ともに趣のある石段です。



ところで、南宮山の真禅院のあった場所には「関ヶ原の合戦」時に吉川広家の陣があった場所とされます。
合戦時の裏の情勢はともかくとして、合戦開始時の両軍配置図を見ると素人目にも西軍有利な布陣に見えてしまいます。



北国街道沿いに陣を取った石田三成の前方を島津義弘・小西行長・宇喜多秀家・大谷吉継が固め、松尾山には小早川秀秋が控えている万全の布陣です。
かたや東軍は黒田長政・細川忠興・井伊直政・福島正則が最前線を固めた後方に家康が本陣を置きますが、右後方に当たる南宮山には吉川広家・安国寺恵瓊・毛利秀元・長宗我部盛親が家康本陣後方から睨みを効かせています。

南宮山に向かって東軍は山内一豊・池田輝政が抑えようとしていますが、もし小早川が裏切らず、南宮山の毛利勢が攻撃を仕掛けていたら西軍の勝利だったとみえてしまいます。
しかし、統制の取れていなかったといわれる西軍と比べて、調略に長けた家康の方が戦いの前から工作を張り巡らせて勝っていた戦だったのでしょう。



真禅院や南宮大社、関ヶ原の合戦場跡のある一帯は不破郡というどちらかといえば寂れた場所にあります。
近くには鍾乳洞や滝(養老)もあり、関ヶ原といえば知らない人はいない地名ではあるにも関わらず、観光客があまり訪れない場所なのは少し不思議な感じもします。
そのおかげでゆっくりと寺社巡りが出来るのはありがいのですけどね。



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