僕はびわ湖のカイツブリ

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“男のためのガーデニング”改め

湖北の巨樹を巡る4~「鉛練比古神社」のケヤキ~

2020-07-13 06:10:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「北国街道・東近江路」は、中山道の鳥居本(彦根市)から米原・長浜・木之本の宿場を通り、今庄・越前へとつながる街道だったといいます。
戦国時代には柴田勝家の越前「北ノ庄城」と「安土城」を結ぶルートとして整備され、江戸時代には参勤交代のルートとしても利用されたといいます。

木之本宿から北上し、余呉町下余呉の集落へ入った場所には「北国街道」と「権現越」の追分に道標がある。
「権現越」は、塩津と余呉を結ぶ街道とされ、「深坂古道」や「塩津海道」を通って、敦賀へと抜けられる抜けられる古道だといいます。
今回は、高時川に沿って北上して行きたかったため、この追分では「北国街道」方面へと向かう。



旧街道の趣を残す「北国街道」を進んで行くと、下余呉と中之郷の境界近くに「郷界一里塚之地」と彫られた石碑が塚の上に立っています。
石組の上に土盛りされて榎かと思われる木が植えられいる姿は、一里塚とは元々このような姿だったのだろうと思わせ、旅人たちはここで自分のいる位置を把握したのでしょう。



「北国街道」を右折して中之郷の集落に入ると、ケヤキの巨樹のある「鉛錬比古神社」が見えてくる。
「鉛錬比古神社」の創建は、第10代崇神天皇の御代(紀元前97~30年)と伝わり、新羅国皇子であった「天の日槍命」その一族が当地を開拓し、祖神を祀ったとされています。

新羅からの渡来人である「天の日槍命」の一族が余呉の地に来たのは、一つには日本海からのルートがあったこと。もう一つはこの地周辺に鉱物資源があったからと思われます。
中之郷に隣接した集落は「丹生」と名の付く“下丹生・上丹生”という鉱物資源を由来とした地名が残り、実際に明治~昭和の時代に余呉町内には土倉鉱山がありました。



そもそも「鉛錬比古神社」と神社名に「鉛錬」という言葉が使われていることからも、鉱物資源との関係や渡来人の金属製品の加工技術があったことが連想されます。
尚、新羅系渡来人の神社としては、隣接する高島市の「白髭神社」が“新羅系渡来人が奉祠した神社”とされていますし、竜王町の「鏡神社」は「鉛錬比古神社」と同じ「天日槍尊」を御祭神として祀っています。

さて、この「鉛錬比古神社」での圧巻は、数本あるケヤキの巨樹になります。
神社は鳥居を入った下段の境内と、本殿のある上段の境内があり、旧街道沿いの神社の角にあるケヤキが最大のものになるようです。



このケヤキは幹回4.35m・樹高20mといい、根の部分に空洞に網が被せられてはいますが、巨大な根は巨象のようにも見える。
樹齢は分かりませんが、街道沿いにあって往来する人々を出迎え、あるいは見送ってきたのでしょう。



神社の境内側から見ると主幹が折れてしまっているが、苔むした幹は表裏で随分と印象が異なる。
もう一本の幹からは枝葉が伸びていることから、まだまだ樹勢は衰えてはいないようです。



鳥居を挟んだ両端に2本のケヤキが立ち、その姿は天然の鳥居のように感じられる。
真っすぐに伸びたケヤキは神社内でもっとも背が高く、境内には杉の木が何本もあることから木々に囲まれた社の印象を強く感じる。



神社の裏出口にもケヤキがあり、これは神社にあるケヤキの中でもっとも若い樹なのかもしれない。
この神社のケヤキの配置をみると、本殿への石段の両端にあたる場所に植えられており、これは神域への道に張られた結界の役割を果たしているのでしょう。



上段の境内の左側から集落に向かって斜めに伸びているケヤキも見事な巨樹です。
境内の大きなケヤキが並ぶ姿に圧倒されますが、本殿裏山にもケヤキがあり、まさにケヤキの神社と言えます。



「拝殿」「本殿」の玉垣から突き出しているケヤキと杉。杉は太さはないが実に背が高い。
裏山は菅山寺のある大箕山につながっていると思われるが、鬱蒼とした森になっていて足を踏み込めず。



この「鉛錬比古神社」の裏山には「鉛錬古墳」があるといい、古代には古墳祭祀が行われていたと伝わります。
現在の余呉の姿からは想像できませんが、かつてこの地は渡来人の文化が栄えていたのでしょう。
本殿の横には「磐座」があり、火袋の部分以外は自然の石の風合いのある野面灯篭がありました。



その右手にも小さな祠と赤茶けた色をした「磐座」のようなものがあった。
祠の前の札に「御代木 別名*** 一位」と書いてありましたが、“***”の部分は読み取れず。
この磐座(「御代木)」が何を示しているのか気になるところです。





神社の境内にはもう一つ野面灯篭がありました。
火袋は加工されているのですが、笠・宝珠・中台・竿の部分はほとんど加工されていない様子。
こういう石灯籠の組み方も味わいがあって面白いものです。



余談ですが、山麓の鉛錬比古神社の裏山「大箕山」の上にある「菅山寺」にはかつて樹齢1000年以上といわれるケヤキの巨樹が仁王門のように存在しました。
2017年の9月に1本が倒壊してしまったと聞きますが、写真は在りし日に菅山寺へ訪れた時の大ケヤキの姿です。





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